ンペン小僧にしろ、持込場のない行路病者にしてみたところが、当人の身性《みじょう》に不明なところがあって、果して犯罪人かどうか甚《はなは》だ不明であるものを、そのまま処刑をするということは、小の虫を殺して大の虫を抑える、時にとっての策略でありとはいえ、源松もあんまりいい心持はしなかった。ところがその策略が当りそうで当らず、民衆がその網にひっかかりそうでひっかからず、かえって裏をかかれて何者かが、あの「生曝し」を引っさらって行ってしまった。それのみならず、愚弄《ぐろう》したようなやり方で、太閤秀吉の木像首をそのあとへおっぽり出して行ってしまった。それには我慢なり難い。罪状不明の者に、かりにも罪を着せた政策の上に多少の引け目がないではないとして、それにしても公儀掟によっていったん曝しにかけた者を、これを奪い去るということは、公法を無視したものだ、これは許すべからざるものだ、何者がいかにして、あの「生曝し」を奪い去ったかということは、今日まで源松の心魂に徹していたことで、源松がその後、江州の方面をうろついていたのは、一つはその責任遂行のためであろうと思われる。
 ところが、現在、眼の前で、その探索の当の本人を見出した。こちらから突きとめる手数を煩わさずして、向うから飛び出して眼前を掠《かす》め去ったこの獲物は見のがせない。
 かくて轟の源松は、いちずに宇治山田の米友のあとを追いました。
 ひとり曠野《こうや》に残された机竜之助、また東に向って歩みをうつそうとした時に、
「はい、左様でございますか、それはそれは御無理もないことでござりまするな、孔夫子の聖《ひじり》を以てすらが、我ニ数年ヲ加エ、五十以テ易《えき》ヲ学ババ大過ナカルベシ――と仰せられました」
と言う声を、草むらの奥で聞きました。
 聞き直すまでもない、それは竜之助として、甲州の月見寺以来熟しきった、お喋《しゃべ》り坊主の音声に相違ありません。
「孔夫子の聖を以てしてからが、五十以て易を学ぶと仰せられました、五十になってはじめて易を学べば大した過《あやま》ちはなかろうとおっしゃいました、孔夫子の聖を以てすらが、それでございます、凡人の能《あと》うところではござりませぬ」
 その音節によって見ますと、これは曠野の独《ひと》り演説ではないのです。誰か別に聞く人あって、それを相手に語り出でながら、歩んで来るものとしか思われません。
 そうして、この場合、この怖るべきお喋り坊主の舌頭にかかって相手役を引受けている人の誰であるかが、竜之助にはっきりわかりました。相手方は何との応対もないのに、これが竜之助の勘ではっきりとわかりました。つまり、あのむつかし屋の胆吹の女王以外の何人でもありません。
 そこで、弁信がお銀様を相手に、かくも弁論の火蓋《ひぶた》を切り出したものだということが、はっきりと入って来ました。
「易という文字は、蜥易《せきえき》、つまり守宮《やもり》の意味だと承りました。守宮という虫は、一日に十二度、色を変える虫の由にござりまする、すなわちそれを天地間の万物運行になぞらえまして、千変万化するこの世界の現象を御説明になり、この千変万化を八卦《はっけ》に画《かく》し、八卦を分てば六十四、六十四の卦は結局、陰陽の二元に、陰陽の二元は太極《たいきょく》の一元に納まる、というのが易の本来だと承りました。仏説ではこの変化を、諸行無常と申しまして、太極すなわち涅槃《ねはん》の境地でござりましょう」
 盲人のくせに、こういう高慢ちきなお喋りをやり出す者は、弁信法師か、しからずんば、和学講談所の塙検校《はなわけんぎょう》のほかにあり得ないと思われるが、ただ、その声の出るところが、いずれの方面だか見当がつきません。
 いま聞いた発端だけによって判断すると、それは東西南北のいずれより起るのでもない、どうもこの地下のあたり、柳は緑、花は紅の辻の下から起り来《きた》るものとしか思われないことです。この下を二人が悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とそぞろ歩きながら、前なるは弁信法師、後ろなるはお銀様が、「易」というものを話題として、説き去り説き来ろうとする形勢を感得したものですから、せっかく、歩み出した竜之助が、また歩みをとどむるのやむを得ざるに立ちいたりました。

         五十二

 宇津木兵馬と福松との道行《みちゆき》は彼《か》が如く、白山《はくさん》に上ろうとして上れず、畜生谷へ落ち込まんとして落ち込むこともなく、峻山難路をたどって、その行程は洒々落々《しゃしゃらくらく》、表裏反覆をつくしたような旅でありましたが、日と夜とを重ねて、ついに二人は越前の国、穴馬谷《あなまだに》に落ち込んでしまいました。
 二人が穴馬谷へ落ち込んだということは、この場合、ざまあみやがれ! ということにはならないのであります。イヤに即《つ》かず離れずの曲芸気取り、その落ち込む当然の運命はきまったものだ、好奇の一歩手前は、堕落の陥穽《おとしあな》というものだ、ドチラが先に落ちたか、後に落ちたか、ドチラがどう引摺《ひきず》ったか、引摺られたか、それは言いわけを聞く必要がない、おそかれ早かれ、当然落ち込むべき運命の谷へ落ち込んだまでのことだ、ザマあ見やがれ穴馬谷、と称すべき意味合いの皮肉の地名ではないので、事実、越前の国、穴馬谷《あなまだに》の名は、れっきとして存在した――今も存在する確実な地名でありまして、後年の測量部の地図にも、地名辞書にも、明瞭に記載された地名でもあり、且つや、谷というけれども、若干の人家が炊烟《すいえん》を揚げている尋常一様の山間の一部落なのであります。
 その穴馬谷へ二人が落ち込んだというのも、足を踏み外して落ち込んだわけではない、青天白日の下、尋常の足どりをもって、この一部落に落着いたという意味でありまして、ここで二人が、また前巻以来同様の宿泊ぶりを、一部落の一民家によって繰返しました。福松が破れ傘のような素振りで、絶えず兵馬を誘惑したり、からかったりしていることも以前と変らず、それを兵馬が閑々として、一個の行路底の修行道として受流しつつ行くことも前と変りません。
 ただ、変っているのは、白山白水谷をわけ入って、加賀の白山に登ろうということが、目標でもあり、一種の信仰でもあるようでした。それがすっかり目標から外れて、仏頂寺弥助の亡霊がさまよう越中の山境へも出でず、白山を経ての菜畑であった加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまったということを、穴馬谷に落着いて、山民から聞いて初めてそれと知ったという有様なのでありました。
 とはいえ、極楽へ行こうとして菜畑へ落ちたわけでもなく、北斗をたずねんとして南魚に進んだというのでもなく、ちょっと針路が左へ片よったという程度で、飛騨《ひだ》から隣りの越中へ出たまでのことですから、前後を顛倒したというわけでもなく、進退に窮したというのではない。目的があってないような道行には、それも苦にならないで、二人は、これからまた落ち行く目標の相談をはじめました。
「ねえ、宇津木さん、ここは越前分ですとさ、越前の国、穴馬谷という村ですとさ、ほんとに穴のような土地じゃありませんか、どちらを見ても高い山ばっかり、穴馬谷へおっこち[#「おっこち」に傍点]なんて、仏頂寺がいたらヒヤかされちまいますわねえ」
「変な名だ――これが越前の国とは思わなかったよ」
と言って、兵馬は携帯の地図を取り出して、ひろげて見ているのを、福松がのぞき込んで、
「加賀へ出る道が、すっかり塞《ふさ》がれてしまって、越前へ送り出されたというのも、何かの縁なんでしょう、いっそ、金沢をやめて福井へ行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺《しるべ》はあるわ、福井から三国港《みくにみなと》へ行ってみましょう、三国はいいところですとさ」
 福松はもう、落ち込んだところが住居で、思い立つところが旅路である――そういう気分本位になりきっているが、兵馬はそういう気にはなれない。
「図面で見ると、ここに相当大きな川がある、これが有名な九頭竜川《くずりゅうがわ》の川上らしい、すると、この川に沿って下れば、三国へ出るのだが――」
「三国、いいところですってね、北国にはいい港が多いけれど、三国は、また格別な風情《ふぜい》があって忘れられないって、旅の人が皆そいっていてよ……」
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三国小女郎
見たくはあるが
やしゃで
やのしゃで
やのしゃで
やしゃで
やしゃで
やのしゃで
こちゃ知らぬ
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 福松は口三味線を取って唄《うた》に落ちて行きました。
[#ここから2字下げ]
いとし殿さんの矢帆《やほ》巻く姿
 枕屏風《まくらびょうぶ》の絵に欲しや
[#ここで字下げ終わり]
「三国の女はとりわけ情が深くって、旅の人をつかまえて放さないって言いますけれど、わたしがついていれば大丈夫、三国へ行きましょうよ、北国情味がたまらないんですとさ。そうして、飽きたら金沢へ行きましょう――でなければ船で、三国から佐渡ヶ島へ――来いと言ったとて、行かりょか佐渡へ、佐渡は四十九里、浪の上――って、佐渡の女もまた情味が深いんですってさ、男一人はやれない。佐渡に限ったことはないわ、あだし波間の楫枕《かじまくら》――行方定めぬ船の旅もしてみたい」
 兵馬は、相も変らず浮き立つ福松の調子に乗らず、
「どのみち、一旦は福井へ出なければなるまい、福井へ出るには……モシ、山がつ[#「がつ」に傍点]のおじさん、ちょっとここへ来て見てくれないか、紙の上で道案内をしてもらいたい」
 宿の山がつ[#「がつ」に傍点]を呼ぶと、松脂《まつやに》を燃して明りを取り、蕨粉《わらびこ》を打っていた老山がつ[#「がつ」に傍点]が、ぬっと皺《しわ》だらけの面をつき出して、
「ドコさ行きなさる、勝山へおいでさんすかなあ」

         五十三

 その翌朝から、九頭竜川の沿岸を下って福井へ出る道も、かなりの難路でしたけれども、今までの山越しと比べては苦にならない。二人はついに越前福井の城下へ落着いてしまいました。
 福松の、そわそわとして上ずっていることは、山の中から町へ出て、いっそう嵩《こう》じてしまいました。福井の城下で、極印屋《ごくいんや》というよい旅籠《はたご》をとって納まった気分というものは、旅から旅の稼ぎ人ではなく、半七を連れ出した三勝姐《さんかつねえ》さんといったような気取り。万事自分が引廻し気取りです。
 ただ、この三勝は少し毛が生え過ぎているし、半七は追手のかかる身でないが、女のために身上《しんしょう》を棒に振るほどの粋人でないだけが恨みだが、半七よりもいくらか若くて、武骨で、ウブなところが嬉しい。それよりも福松の気丈夫なことは、二人の中には、現に三百両という大金が手つかず保管されていることで、これはもともと、代官のお妾《めかけ》のお蘭どののお手元金なんだが、それがわたしたちの手に落ちて来たというものは、たくんだわけでも、くすねたわけでも何でもない、自然天然に授かったので、人民を苦しめてしぼり上げた、その血と汗のかたまったもの、お蘭さんのような自堕落な女に使われたがらないで、苦労人であるわたしたちの方に廻って来たというものが、つまり授かりもの、天の与える物を取らずんば、災《わざわい》その身に及ぶということがありましたね、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]というイケすかない野郎の手をかりて、ウブで、そうして苦労人の二人の手に渡ったことが果報というものなんでしょう。この大金が手にある限り、二人は相当長いあいだ遊んで歩ける、という胸算用が、疾《と》うに福松の腹にあるからです。
 放縦のようでも、売られ売られつつ、旅から旅を稼がせられ、およそこの世の酸《す》いも甘《あま》いもしゃぶりつくした福松は、金銭の有難味を知っていて、締まるところは締まる仕末も、世間が教えてくれた訓練の一つ。
「二十日余りに四十両、使い果して二分残る――なんて、浄瑠璃《じょうるり》の文句にはいいけれど、梅川も、忠兵衛も、経済
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