賦与されてある弁信その人にとっては、現実には打って響く何物の経験がない、と見なければならない。では、「夢のような晩だなあ」と形容してみたところで、やっぱり弁信の感覚にはピンと来ないに相違ない。この法師には、明と暗とが不可分平等であるように、夢と現実との区別が、最初からはっきり[#「はっきり」に傍点]としていないのです。
 よって米友の唱破第一声は、米友が米友としての詠歎に過ぎないのですが、それでも、その気分だけは弁信にもよくわかると見えて、それを素直に受入れて、「はい」と言ったきりで、明るいとも、暗いとも、夢に似ているとも、現実に近いとも、あえて肯否のいずれをも言明いたしません。やや暫く、足の方は小止みもないのにかかわらず、言葉がつづかない。
「はい」と言った応唱一声で、あとが続かない。この法師としては、また極めてめずらしいことです。本来ならば、沈黙は沈黙として、ひとたび舌根が動き出して、言説の堤が切れた以上は、のべつ幕なし、長江千里、まくし立て、おどし立て、流し立て、それは怖るべき広長舌を弄《ろう》するこのお喋り坊主が、ただ、「はい」だけで食いとまったことこそ、今までの中での最大驚異
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