[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ者に相違ないということを、確認したからです。
その瞬間に、万事を忘れて、
「あいつが来ているからには、何か事がある」
自分の胸へ、何とはつかず、ぴーんと来るものがありました。
六十一
神尾主膳は相変らず、勝麟太郎《かつりんたろう》の父、夢酔道人の「夢酔独言」に読み耽《ふけ》っている。
神尾をして、かくも一人の自叙伝に読み耽らしむる所以《ゆえん》のものは、かりに理由を挙げてみると、人間、自分で自分のことを書くというものは、容易に似て容易でない。第一、人間というやつは、自分で自分を知り過ぎるか、そうでなければ、知らな過ぎるものである。自分で自分を知り過ぎる奴は、自分を法外に軽蔑したり、そうでなければ自暴《やけ》に安売りをする。自分で自分を知らな過ぎる奴は、また途方もなく自分を買いかぶるか、そうでなければ鼻持ちもならないほど、自分を修飾したがる。
よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から篤《とく》と見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない――極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶
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