に、島原の大門を出た、たった一人の客がありました。
追い立てられるというのは、ホンの形容で、事実、誰も追う人はなし、追わるるような弱味の体勢にはなっていないが、時が時であって、四方が四方でしたから、引窓の中から抜け出して、朝霧の中へ消えて行くような感じで大門を出たが、足どりは寛《ゆる》やかで、時々町筋に留まっては、前後を思案するような気配がある。黒い頭巾をかぶって、着ていたのが合羽《かっぱ》ではない、被布《ひふ》であるらしい。下着は白地で、大小を落し目に差しこんでいるが、伊達の落し差しではない。スワ! と言わないまでも、いつ何時でも鞘走《さやばし》るような体勢で、それでもって、はなはだ落着いて、静かに地上を漂うが如く忍んで行く。
ははあ、これだな、先刻、御簾の間の、闇にひとりぽっちの爛酔《らんすい》の客、しきりに囈語《うわごと》を吐いて後に、小兎一匹を虜《とりこ》にしてとぐろを巻いて蠕動《ぜんどう》していた客。
中堂寺の町筋へ来ると、その晩は残《のこ》んの月が鮮かでありました。が、天地は屋の棟が下るほどの熟睡の境から、まだ覚めきってはいない。一貫町から松原通りへ出るあたりの町角に
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