です。呼んでも返事がないのです。
 はっ! と何かに打たれたように、村正氏は慌《あわただ》しく、以前のぼんぼりに火を入れさせて、わざと騒がぬ体にして、
「おじさんが探して来るから、みんな安心して待っておいで」
 一人で、その雪洞を持って、また廊下を引返して来たのは、今の乱闘の現場――御簾《みす》の間《ま》――そこへ、二の足をしながら、雪洞をさし入れて見ると、座敷いっぱいに敷きのべた古戦場のあとはそのまま。はっ! と再び動顛してまず眼についたは、かの壁の一隅、まだ人はいる。以前の長身白顔の爛酔客が、あちら向きになってうめいている。しかも、その壁に押しつけられたところは、大蛇《おろち》が兎を捕えたように、可憐の獲物を抱きすくめて、放すまじと、それにわだかまっている。獲物は、声も揚げない、叫びも立てない、死んだもののようになっている。死んでいるのかも知れない。大蛇は静かに蠕動《ぜんどう》して、そうして確かに生きている。
 はっ! と、村正氏はついに雪洞を取落してしまいました。
 四方はまたまっくらやみ。

         二十九

 その日、大びけ過ぎといった時刻の暁方、追い立てられるよう
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