りましたが、これは関守氏を待って、はじめて下さるべき卓抜の見識でもなんでもありません。
当時のすべての人は、このぐらいの憂慮と見識とを持っているに拘らず、物語の順序として、この常識の前置きから始めたものでしょう。そうするとお銀様が一度はうなずいて、それから一歩を進ませました。
「二大勢力というけれど、今日は鎌倉時代の昔、王家と武家という単純な二つの区別だけでは済みますまいね、大義名分からしますと、その二つしか差別はないようでありますけれども、今はこの二つの大きな勢力のほかに、また一つの見のがしてならない大きな力があります、それは外国の力ではありません、国内だけに限っての見方としても、勤王と佐幕のほかに、見のがしてはならない大きな勢力があることを忘れてはならない、とわたくしは思います」
お銀様から、改まってこう見識を立てられると、不破の関守氏が、いささか当惑してしまいました。
十八
勤王、佐幕の二大勢力のほかに、隠れたる一大勢力とは何ぞ、これを外患とせずして、国内だけに見ると、何と表明してよいか、実質的に言えば、関守氏ほどの聡明人が、感得しないはずはありませんが、それを瞬間に答えることに戸惑いをしたものです。
「その隠れたる一大勢力とは、何を指しておっしゃいますか」
「それは言わずと知れたこと、経済の力なのです、砕けて言えばお金持の勢力なのです、勤王にも、幕府にも、武力はありましょう、人物もありましょう、遺憾《いかん》ながら、ドチラにもお金がありません、武力が整い、人物が有り余っていても、お金がなければ仕事をすることができません、この力を無視しては、天下を取ることはできませんね――それが一つの勢力ではありませんか」
「御尤《ごもっと》も」
不破の関守氏がお銀様の見識に、即座に膝を打ったことは申すまでもありません。お銀様はちっとも騒がず、おもむろに数字を以て、当時天下の長者といわれる家々の実力を、実際の上から論歩を進めて参りました。江戸で三井、鹿島、尾張屋、白木、大丸といったような、大阪で鴻池《こうのいけ》、炭屋、加島屋、平野屋、住友――京の下村、島田――出羽で本間、薩摩で港屋、周防《すおう》の磯部、伊勢の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀、熊本の吉文字屋――北は津軽の吉尾、松前の安武より、南は平戸の増富らに至るまでの分限《ぶげん》を並べて、その頭のよいことに関守氏を敬服させた後、
「それですから、ここに相当の金力の実力を持っている者がありとしますと、たとえば三井とか、鴻池とかいう財産のある大家の中に、先を見とおす人があって、これは東方が有望だ、いや西方が将来の天下を取るというようなことを、すっかり見とおして置いて、そのどちらかに金方《きんかた》をしますと、その助けを得た方が勝ちます、勝って後は、そのお金持がいよいよ大きくなります――それに反《そむ》かれたものは破れ、それが力を添えたものが勝つ、戦争は人にさせて置いて、実権はこれが握る、実利はこれが占める、政府も、武家も、金持には頭が上らぬという時節が来はしないか、わたしはそれを考えておりました」
「御説の通りでございます――そこで、金持に見透しの利《き》く英雄が現われますと、天下取りの上を行って、この世をわがものにする、という手もありますが、間違った日には武家と共に亡びる、つまり大きなヤマになるから、堅実を旨《むね》とする財閥は、つとめて政権争奪には近寄らない、近寄っても抜き差しのできるようにして置く、さりとて、その機会を外して、みすみす儲《もう》かるべきものを儲けぬのは商人道に外れますから、時代の動きを見て、財力の使用を巧妙にしなければならない、天下の志士共は、今、政権の向背について血眼《ちまなこ》になっておりますが、商人といわず、財力を持つものも懐ろ手をして油断をしている時ではありません、ここで油断をすると落伍する、ここで機を見て最も有効に投資をして置くと、将来は大名公家の咽喉首《のどくび》を押えて置くことになる――ところでお嬢様、三井、鴻池などの身のふりかたはひとごと、これをあなた様御自身に引当ててごらんになると、いかがでございます、このまま財《たから》を抱えて、安閑として成るがままに任せてお置きになりますか、但しは、ここで乾坤一擲《けんこんいってき》――」
不破の関守氏が、つまり今までの形勢論は、話の筋をここまで持って来る伏線でありました。
事実上、この怪婦人は、今や相当大なる財力の主人としての実力を持っている。この実力をいかに行使せしむべきかが、関守氏の腕の振いどころでなければならぬ。
しかし、お銀様としては、極めて虚心平気な答弁を以てこれを受け止めました。
「わたくしは、ドチラにもつかないつもりです、わたしはヤ
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