》はしたが、まだ檻へブチ込まれた経験はない。でも、この野郎、ドコまでものんき千万に出来上っている。皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタ……も出来がいい。オレガ悪くないところがどこにある。二十一づらを下げて三畳の檻の中で手習ヲハジメたとはこれだけは感心だ。この神尾も、この歳になってはじめて手習をはじめている――友達がたずねて来たのを、熊の子じゃあるまいし、檻の内と外で、世間話を聞いて頼シンデいたがイイ。この場合楽しんでと書くより、頼シンデと書いた方が気分が出ている。それにしても、二十一から四までの三畳生活、身から出た錆《さび》とは言いながら、よく辛抱したものだ、おれにはそんな辛抱はできない、と神尾が思いました。
[#ここから1字下げ]
「ソノウチ、親父ヨリ度々書取リニシテ、イケンヲ云ッテクレタ、ソノ時、隠居ヲシテ、息子ガ三ツニナルカラ家督ヲヤリタイトイッタラ、ソレハ悪イ了簡《りょうけん》ダ……」
[#ここで字下げ終わり]
悪イ了簡ではない、図々しいというものだ、と神尾が呆《あき》れました。檻へブチこまれたとはいえ、乱心しているわけでもなし、身体不具というわけでもない。二十四の盛りで、三ツの悴《せがれ》に家督を譲りたい、それは悪い了簡以上の図々しさだと、主膳が呆れて次を読むと、
[#ここから1字下げ]
「コレマデイロイロノ不埒ガアッタカラ、一度ハ御奉公デモシテ世間ノ人口ヲモ塞ギ、養家ヘモ孝養ヲモシテ、ソノ上ニテ好キニシロト、親父ガ云ッテヨコシタカラ、尤《もっと》モノコトダト初メテ気ガ附イタ故……」
[#ここで字下げ終わり]
それ見ろ、それは親父の言うことがあたりまえの看板だ。それを今更になって、初めて尤ものことと気がついたもないものだ。
[#ここから1字下げ]
「出勤ガシタイト兄ヘ云ッタラ、手前ガ手段デ、勤道具、衣服モ出来ルナラ、勝手ニシロ、オレハ、イカイコト手前ニハイリ上ゲタ故、今度ハ構ワヌトイッタ故、ソノ時ハオレガホホノ下ニハレ物ガ出テイテ寝テ居タガ、少シモ苦労ヲカケマイトイウ書附ヲ出シテ、檻ヲ出デ――」
[#ここで字下げ終わり]
出たな! なんとかかとか言って出してもらったな、これからがまた思いやられるよ――と神尾は苦笑をつづけつつ読む。
[#ここから1字下げ]
「翌日、拝領屋敷ヘ行ッテ、家主ヘ談ジテ金子《きんす》二十両借リ出シテイロイロ入用ノモノヲ残ラズ拵《こしら》エテ、十日目ニ出勤シタ。
ソレカラ毎日毎日、上下《かみしも》ヲ着テ、諸所ノケンカヲ頼ンデ歩イタガ、ソノ時、頭《かしら》ガ大久保上野介ト云イシガ、赤阪|喰違外《くいちがいそと》ダガ、毎日毎日行ツテ御番入リヲセメタ、ソレカラ、以前ヨリイヨイヨ悪イコトヲシタコトヲ残ラズ書取ッテ、只今ハ改心シタカラ見出シテクレロト云ッタラ、取扱ガ来テ、御支配ヨリオンミツヲ以テ、世間ヲ聞糺《ききただ》スカラ、ソノ心得ニテ居ロトイウカラ、待ッテ居タラ、頭ガ、或時云ウニハ、配下ノ者ハイツモ隠スガ、御自分ハ残ラズ行路ヲ申聞ケタ故、諸所聞キ合ワセタ所ガ、云ワレタヨリハ事大キイ、シカシ改心シテ満足ダ、是非見立テヤルベシ、精勤シロトイウカラ、出精シテ、アイニハ稽古ヲシテイタガ、度々|書上《かきあげ》ニモナッタガ、トカク心願ガ出来ヌカラクヤシカッタ――」
[#ここで字下げ終わり]
まあ、とにかく、この辺で納まれば見つけたものだ、箸《はし》にも棒にもかからぬ代物《しろもの》だが、人間にはまだ見どころがある、この神尾のように腹まで腐りきってはいないところがあると、主膳も身に引きくらべてややさとるところがありました。
六十二
ここで勝の小吉が親父と言ったのは、実家|男谷《おたに》の父親のことで、平蔵と言い、兄というのは即ち下総守信友で、当時府下第一の剣客なので、その男谷平蔵の三男として生れた小吉が、勝家へ養子にやられたこの自叙伝の主人公、左衛門太郎夢酔入道であることは、神尾主膳も先刻承知の上で読み進んでいるのです。さすがのやくざ者も、この時代から漸《ようや》く目がさめて、人間並みになりかかったらしいことを、読みながら、神尾主膳は相当くすぐったがっている。さてまた自叙伝の読みつぎ――
[#ここから1字下げ]
「コノ年、親父ヤ兄ニ云イ立テテ、外宅ヲシテ割下水《わりげすい》天野右京トイッタ人ノ地面ヲ借リテ、今迄ノ家ヲ引イタガ、ソノ時、居所ニ困ッタカラ、天野ノ二階ヲ借リテイタウチニ、俄《にわか》ニ右京ガ大病ニテ死ンダ故、イロイロト世話ヲシタガ、ソノウチ普請モ出来、新宅ヘ移リ居ルト、右京方ニテハ跡取ガ二歳故、本家ノ天野岩蔵トイウ仁ガ、久来ノ意趣ニテ、家督願ノ時|六《む》ツカシク云イ出シテ、右京ノ家ヲツブサントシタカラ、イロイロ揉《も》メテ片附カズ、ソノ時、オレガ本家トハ心安イカ
前へ
次へ
全101ページ中75ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング