[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ者に相違ないということを、確認したからです。
 その瞬間に、万事を忘れて、
「あいつが来ているからには、何か事がある」
 自分の胸へ、何とはつかず、ぴーんと来るものがありました。

         六十一

 神尾主膳は相変らず、勝麟太郎《かつりんたろう》の父、夢酔道人の「夢酔独言」に読み耽《ふけ》っている。
 神尾をして、かくも一人の自叙伝に読み耽らしむる所以《ゆえん》のものは、かりに理由を挙げてみると、人間、自分で自分のことを書くというものは、容易に似て容易でない。第一、人間というやつは、自分で自分を知り過ぎるか、そうでなければ、知らな過ぎるものである。自分で自分を知り過ぎる奴は、自分を法外に軽蔑したり、そうでなければ自暴《やけ》に安売りをする。自分で自分を知らな過ぎる奴は、また途方もなく自分を買いかぶるか、そうでなければ鼻持ちもならないほど、自分を修飾したがる。
 よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から篤《とく》と見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない――極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶に自分を軽蔑したがる奴、それから自暴に自分の安売りをする奴と、イヤに自分をおめかしをする奴――自分で自分をうつすと、たいていはこの四つのいずれにか属するか、或いは四つのものがそれぞれ混入した悪臭のないという奴はないのが、このおやじに限って、どうやらこの四つを踏み越えているのが乙だ。あえて自分をエラがるわけでもないし、さりとて乞食にまで落ちても、落ち過ぎたとも思っていないようだ。自分を軽蔑しながら、軽蔑していない。おめかしをして見せるなんぞという気は、まず微塵もないと言ってよかろう。
 神尾のような人間から見ると、自分が、あらゆる不良のかたまりでありながら、人のアラには至って敏感な感覚にひっかかると、及第する奴はまず一人もない。大物ぶる奴、殿様ぶる奴、忠義ぶる奴、君子ぶる奴、志士ぶる奴、江戸っ子がる奴、通人めかす奴……神尾にあっては一たまりもない。新井白石の折焚柴《おりたくしば》を読ませても、藤田東湖の常陸帯《ひたちおび》を読ませても、神尾にとっては一笑の料《しろ》でしかあるに過ぎないけれど、夢酔道人の「夢酔独言」ばっかりは、こいつ話せる! いずれにしても、神尾をして夢中に読み進ましめるだけの内容を備えていることは事実で、そうして読み進む文面を、順を逐《お》って複写してみると、あれからの勝のおやじの自叙伝が次のようになっている。
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「ソレカラ、ダンダン行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早ク通セト云ッタラ、早々人足ガ出テ、大切ダ、播磨様ダトヌカシテ、一人前払ッテオレハ蓮台《れんだい》デ越シ、荷物ハ人足ガ越シタガ、水上ニ四人並ンデ、水ヲヨケテ通シタガ、心持ガヨカッタ」
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 勝麟太郎の親父――小吉ともいえば、左衛門太郎ともいう馬鹿者が、子供の時分から、箸《はし》にも棒にもかからない代物《しろもの》で、喧嘩をする、道楽をする、出奔をする、勘当を受ける、それもこれも、一度や二度のことではない。そのたわけ物語の書出しに、
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「オレホドノ馬鹿ナ者ハ世ノ中ニモアンマリ有ルマイト思ウ故《ゆえ》ニ、孫ヤ彦ノタメニ話シテ聞カセルガ、ヨク不法モノ、馬鹿モノノイマシメニ話シテ聞カセルガイイゼ」
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と言っている通り、馬鹿も度外れの馬鹿になっている。しかし家は剣道で名うての男谷《おたに》の家、兄は日本一の男谷下総守信友であって、それに追従する腕を持っていたのだから、始末が悪い。
 最初の出奔は十四の時。乞食同様ではない、乞食そのものになりきって、海道筋をほうつき歩き、やっと江戸のわが家へのたりついたが、十九の年にまたぞろ出奔して、今度は前と違い、
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「オレガ思ウニハ、コレカラハ、日本国ヲ歩イテ、何ゾアッタラ切死ヲシヨウト覚悟デ出タカラ、何モコワイコトハ無カッタ」
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と、剣術道具を荷《にな》い、腹を据《す》えて出て来て、宿役人を愚弄《ぐろう》する、お関所を狼狽《ろうばい》させる、大手を振って東海道をのして来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来たので、これからがその読みつぎになるのです。
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「ソレカラ遠州ノ掛川ノ宿ヘ行ッタガ、昔、帯刀《たてわき》ヲ世話ヲシタコトヲ思イ出シタカラ、問屋ヘ行ッテ、雨ノ森ノ神主中村|斎宮《いつき》マデ、水戸ノ御祈願ノコトデ行クカラ駕籠《かご》ヲ出セトイウト、直グニ駕籠ヲ出シテクレタカラ、乗ッテ、森ノ町トイウ秋葉街道ノ宿ヘ行ッ
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