を降参させてみたいと秘術――ではない、心づくしの限りを見せたつもりなんですけれど、あなたはついに落ちなかったわよ、えらいわねえ、ほんとにえらいのよ、あたしの腕も、面《かお》も、あなたの潔白の前に廃《すた》りましたわ。でも、男に負ける分には負けても恥にはならない、男一人を落さなければ、女の後生《ごしょう》にはなりますねえ――今晩の、あわら[#「あわら」に傍点]のお湯の宿は、もうそんないやらしいことのない、罪のない、親身の姉と弟の気分で、生涯の名残りを惜しみましょうよ。嬉しい、嬉しい、たった一晩でも、わたしは嬉しい」
道中での思わせぶりは、多分のイヤ味もあったし、若干の真実もあって、兵馬も心得て、これに応対し、その応対そのものもまた、人生の行路の一つの修行底とも見なして、隙間なき用心のもとに、それを扱って来たから、兵馬の心にも油断はなかったけれども、今ここで、この女がムキ出しに懐かしがったり、有難がったりして、そわそわ、わくわくする心持には、女としての天真の流露もある、子供同士の気分に帰ったようなものでもあるし、それには警戒の不安もなく、いや味の禁忌もないことに動かされて、兵馬も、この女と最後の一夜の水入らずの名残りを惜しむの時間が惜しいとも思われませんでした。そうすると、女というものが別な女になって、海千山千の股旅者ではない、純な処女の人情として扱うことの、何となしの魅力を、兵馬が改めて感得したものと見えて、気持よく言いました、
「よろしい、最後の一夜を明かしましょう、出立は一日延ばしてあげます」
「まあ嬉しい、嬉しい」
女は飛び立って悦びました。
五十六
ここは、あわら[#「あわら」に傍点]の温泉の一夜。
あわら[#「あわら」に傍点]の温泉は明治の十年に発見されたということだから、その時分はまだ地下に埋もれていた、その仮普請の一夜。
福松の言う相当の顔役が言っていた、旦那衆もてなしの数寄《すき》をこらした仮構《かりがまえ》に、庭も広いし、四辺《あたり》の気遣《きづか》いはなし。
そこで、兵馬はドテラに着替えて、福松も粋《いき》な浴衣《ゆかた》の一夜、兵馬が改まって、
「では、道中お預かりの品、ここでしかとお渡し申す、お受取り下さい」
行李《こうり》の中から取り出して、福松の眼の前に置いたのは、金包、すなわち問題の三百両の大金であります。
「それは、いただきません、これはわたしのものではございません」
そこで、問題の三百両の大金を前にして、二人の間に辞譲の押問答がはじまりました。
兵馬は、これはたしかに福松への授かり物で、本来は、代官の胡見沢《くるみざわ》が百姓をしぼって淫婦お蘭に入れ揚げた金だから、それが偶然の機会で福松の手に落ちたのは、すなわち授かり物であって、お金のためから言っても、淫婦の手に渡って湯水のように使われるよりは、福松の手に使われた方が有利にもなり、人助けにもなる、ほかへはドコへ持って行き場のない金、つまり天の与うる物を取らざれば、わざわいその身に及ぶというようなことを説いて――それは寧《むし》ろ福松の最初からの口伝《くでん》のようなものですけれども、それを繰返して述べて、福松に渡そうとすると、福松がそれを押し返して、なるほど、それはそうに違いないでしょう、わたしとしても、自分が汗水で儲《もう》けた金とは思わないけれども、それにしても馬鹿正直に届ける必要のないお金、もとへ返す便りもないし、もとへ返すよりは、こちらで有効につかった方が、身のためにも、人のためにもなるというもの。そこに義理を立てるつもりはないと思って、いっそ、この金のある限り、二人で旅をしてみたいなんぞと仇《あだ》し心が出ないことはなかったが、今のわたしの身になってみると、もう、そんなお金はいらない、身の振り方がきまってみると、あとはお財《たから》は腕から出て来る、そこは憚《はばか》りながら芸が身を助ける自分の力、これから先に大金は用があって要がない。
それに比べると、あなたはこれから、やっぱり旅。いくら有っても邪魔にならないのは、お財というもの、これはあなたがお使いなさるが当然のお駄賃。
心から福松は、そういう観念で、兵馬にまた三百両の大金を押し返し、押しすすめましたけれども、それを、そうかと言って、翻って受け納める兵馬ではありません。
なるほど、一応それは聞えるけれども、拙者は男子一匹、天涯一剣の身、路用があればあるで心強いには相違ないが、なかったところで、相当助力の友は到るところにあって、更に窮屈というものはない、それよりも、身が定まった、定まったというけれど、とにかく、知らない土地へ来ての一本立ちは、見込み以上に物がいる、まして、相当の顔に立てられれば立てられるように、株の手前もあり、附合いの入
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