でございまするか」
「いや、何も知らない」
「それでは、お話し申し上げますが、その前に、おたずね申し上げて置きたいことは、あの庫裡の中で、夜分になりますると、毎夜、怪しい物をごらんあそばしまするようなことはござりませぬか」
「左様――」
と竜之助は、問われてはじめて思案してみたが、何を言うにも昨今のことで、しかも、同居は血の気の多い幾多の壮士共だから、特に、怪しいとも、怖《こわ》いとも、感じている暇がないのでありました。
「夜分、ある時刻になりますと、あのお台所のあたりで、男女の悲しみ泣く声がすると、世間の噂でござりまする」
「ああ、そのことならば……」
 そこを出る前に、たしかに経験して来たことです。
 男と女のすすり泣きの合唱があった。その合泣が、自分の部屋の一隅で起ったのか、柱の中でしているのか、或いは天井裏でしているのか、見当に苦しんだ覚えが、急によみがえって来ました。尼の問うのは、たしかにそのことに相違ない。
 してみると、あの忙しい男女のすすり泣きは、自分が経験した妄想だけではない、この尼さえも知っている。程遠いところに住む人さえ知っているくらいだから、もはや、一般の常識化して、世間の口《くち》の端《は》に上っているに相違ない。
 竜之助の合点が参った様子を見て取って、尼も安心したらしく、
「夜分、ある時になりますると、必ず、若い男女の悲しみの泣き声が、いずれよりか聞えて参りまして、その泣き声がやみますると、暗い中から白い手が出て参り、柱から壁、長押《なげし》をずっと撫《な》で廻すそうにござりまするが、それは真実でござりまするか」
 待てよ、男女の悲泣する声だけは、たしかに聞いて出て来たが、その白い手は見なかった。闇の中から白い手が出て、柱から壁、壁から長押を撫で廻す、それは見なかったぞ。してみると自分は、前の巻だけを見て、つまり、前奏曲だけを聞いて、仕草のところは見届けなかったというわけかな――
 竜之助は、一旦はうなずいて、こう言って附け足しました、
「いや、その物悲しい男女の泣き声だけは確かに、この耳に留め申したが、その白い手首が出て、柱から壁、壁から長押と撫で廻す、それは見ないで参った」
と繰返し言のように言ってみましたが、はて、見なかったのは、出なかったのではない、自分は物を聞く人であって、見る設備を欠いているから、それでこの耳に聞いただけで、目には見えなかった。
 見えないのが当然であるようで、また見えないはずがないともおもわれる。よし、今晩、立ちかえったら改めて見直してみよう。そういうものが見えるか見えないかは、眼の問題ではないように疑われて来たものですから、竜之助の足はここにありながら、頭は月心院の座敷に戻っておりました。そこで、尼への挨拶には、何ともつかず、
「実は、拙者も、つい昨今あれへ参ったものでござってな、いやもう、殺伐《さつばつ》な壮士共と雑居を致しておりまするから、化け物の方も出る隙《すき》がなかったものでしょう、それが今晩あたりから、急に人が減って静かになったので、常例で出るものならば、改めて出直しの幕があるかも知れない、立戻って篤《とく》と見直しと致しましょう」
 こんなことを返事してみました。

         四十二

「いや、元はと申しますとたあいもないことでござりまするが、起りは斯様《かよう》な訳合《わけあい》でござりましてな……」
 竜之助が現象は見たが、事実は知らない人だということに気がついて、堂守の尼さんが、次のような一条の物語を語って聞かせてくれました――
 天竜寺に、若い一人の美僧があって、それが門番の美しい娘と出来合ってしまった。二人は上りつめて、切羽《せっぱ》つまった末に、とうとう駈落《かけおち》と覚悟をきめて、ある夜、しめし合わせ、手に手をとって駈落を決行したが、その時、若い美僧は、重々悪いこととは知りながら、師の坊の手許《てもと》から若干金を盗み出し、それを後生大事に財布に入れて肌身につけたのは、世間を知らない二人が、われから世間の荒波に乗り出すからは、何を置いても通用金のこと、これさえあれば当座の活路、というだけの分別はあって、何をするにも先立つは金、という観念から、それを恋の次のいのちとして後生大事に持って逃げ出した、額《たか》は、百両とか、二百両とか、相当の大金であったとのこと。
 どういう縁故であるか知らないが、この月心院まで落ちて来て、ここへ一晩かくまわれ、いよいよ明日は奈良へ向けて落ちのびの、その夜のことでありました。美僧美女は、ここの一室に一夜を明かし、その時に僧は、肌身放さぬ大金の財布を柱の上の釘にかけて、そうして一夜を女と明かしたものです。
 さて、その朝まだき、人目を厭《いと》うて、木萱《きかや》に心を置いて、この庫裡を忍んで立ち出でた
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