は、ついにこの座敷を出てしまいました。外は生粋《きっすい》の夜です。しかも、京都の天地の絹ごしの夜ではあるが、その横も、縦も、一匹の悪魔の跳梁には差しつかえのない闇の空間が与えられている――
ただし、王城の夜は、甲州一国の城下の夜とは違い、ここには天下選抜きの壮士が、挙《こぞ》って寝刃《ねたば》を合わせているから、この男一人が出動したからとて、城下の人心の警戒と恐慌は、あえて増しもしないし、減じもしない。当時、ここで、三つや四つの人間の首が街頭にころがっていたからとて、それだけで人心を聳動《しょうどう》するには、人心そのものにもはや毛が生えている。人心をおびやかさんがための出動ならよした方がよい。さしせまった血なまぐさい聳動にはたいていの京人はもう食傷している。
第一、御当人の身が危ない。辻斬というものは、人の気の絶えた辻に行ってこそ多少の凄味もあるというものだが、合戦の場へ辻斬に出たからとて、幕違いの嘲笑を受けて、結局、自分の身を木乃伊《ミイラ》にするが落ちだ。
さればこそ、この当人は、当座の食物をあさるべく、壬生や、三条、四条方面の本場へ行かないで、むやみに場末に向って、ふらふらと歩いて行くように見える。
四十一
ドコをどう経めぐって来たか、やがて五条橋の南の詰をめぐったかと思うと、本覚寺に近いところ、深い竹林の中を彼は歩いているうちに、一つの堂の前に立ち出でると、
「これは、ようお越しやす、近ごろはとんと御参詣の方もございませぬに、これはまあ、珍しうお越しやして」
と、先方から呼びかけるものがありました、これは相当の年配の女の声であります。
打見るところ――ではない、打聞くところです、その聞くところの音声によって判断、ではない、想像であります、その想像によると、竹林に近く一つの堂があって、その堂守として尼さんがいる、堂のわきには塚があって、石の塔が立っている、その前へ竜之助が近づいたことから、堂守がかく呼びかけたものであります。
「いや、どうも――」
と、出端《でばな》を抑えられたもののように竜之助は立ちどまって、その過《あやま》ち認められたことをかえって仕合せなりとしました。
「近ごろは、あちらこちらの御利益《ごりやく》あらたかな方への御信心は、昔と相変りませねど、この鬼頭天王様《きとうてんのうさま》へは一向、皆様の御信心が向きませぬ、そのところを、あなた様だけが斯様《かよう》に夜参りまであそばします、その御奇特なことに存じやして」
尼さんは重ねて、かく悦びごとを言いました。その言葉によって察すると、ここに仏神のいずれかの信仰の道場があって、その名を鬼頭なにがしと呼んだかな、その道場の前へ竜之助が到りついたのである。無論、この男がなんらかの信仰心があって到着したわけではない。心はうつろにさまようて、ついここへ来てしまったのだが、先方はそれを、特にここを目ざして参詣に来た御奇特な信心者のように受取ってしまったのであります。しかし、そう受取ったならば、そう受取らせて置いて、あえて苦しいとも思わない。どちらへ受取られてみたといって、身に直接の利害が及ばない範囲に於ては、弁明に及ぶまいが、それに相当する挨拶は返さなければなるまい。
ところが、それも先方がうまく引取ってくれるのでした。
「さあ、どうぞ、これへお越しやして、朝霧の妄執《もうしゅう》のために一片の御回向《ごえこう》を致し下さいませ、重清がためにもこの上なき供養となりまするのでござります、いやもう御奇特なことで」
堂守の独《ひと》り合点《がてん》は早口調で、たださえよくわからないが、その早口のうちに聞いていると、朝霧の妄執のために一片の御回向なにがしとやら言ったな、朝霧! というのは、島原で雑魚寝《ざこね》をしたくすぐり合いの雛妓《すうぎ》の一人で、最後まで留り残されたあれだな、いや、最後に拾い物をしたあの子供の名が朝霧といったな、これが、もはや妄執となって、一片の御回向下の人にされているとは、さりとは気が早過ぎる。
いや、こっちが気が早いのだ、朝霧といったところで、天下に一人や二人ではあるまい。あの時の朝霧は罪のない舞子で、ここで回向をされようというのは罪業深い過去仏のことだろう。
そんなことを考えて、竜之助は、ともかくも、この声のする方へ近づいて行くと、
「これはこれは、あなた様は、いずれにおすまいでいらせられまするか」
「高台寺の月心院に」
「ええ、何と仰せられました」
堂守の尼が聞き耳を立てました様子ですから、竜之助は重ねて、
「月心院の庫裡《くり》に、しばらく世を忍んでおりまするが、今晩、月がよろしいようですから、ついうかうかと出て参りました」
「まあ、その月心院の庫裡と申しますのを、あなた様は御承知の上でおすまい
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