にあらずとも、と言っているが、彼もまた一個の英雄だよ。時勢に逆行する頑冥者、血を見て飽くことを知らざる悪鬼の如く喧伝するやから[#「やから」に傍点]は別だ、僕の見るところでは、彼ほど大義を知り、彼ほど人情を解し、しかしてまた彼ほど果敢の英雄的気魄を有している男はまず見ない」
斎藤一は、声涙共に下って、近藤崇拝の讃美をやめることができない。彼は心から近藤を尊敬していると共に、世間の彼に対する誤解を憤り、その誤解を憤るよりは、彼の長所を没却して、それを誤解せしめんとする浮浪のやからを憤っている。そこで、余憤の迸《ほとばし》るところ、前に人を見ないように、意気が揚って来るのみである。
「養父の周斎には僕は会ったことはないが、勇《いさみ》のそれに対する孝心というものは、それは実に他の見る眼もいじらしいくらいで、事あれば必ず江戸に残した父に報ずる、立身したからと言っては父に、功名したからと言っては父に――それから、己《おの》れの仕給せらるる手当は割《さ》いて以て父に奉ずる。周斎老人は江戸に於ても、おれは勇が孝行によって、この通り何千石の旗本も及ばぬ楽隠居の身分に暮している、一にも二にも悴《せがれ》のおかげだと言って喜んでいるのが江戸では評判で、それを見聞きするほどのものが、ゆかしがらぬ者はないという。事実その通りなんだ、彼は親に孝たるべき所以《ゆえん》を知り、且つこれを稀有《けう》なる純情を以て実行している、況《いわ》んや朝廷を尊ぶべき大義を知り、為政者としての幕府を重んずべき所以を知っている、彼の手紙を読んで見給え、ドコを見ても尽忠報国の血に染《にじ》んでいないところはない。しかるに彼を、血も涙もない殺人鬼の如く取沙汰《とりざた》するやからは何者だ、たとえ反対側に立つの浪士共といえども、彼を知っている者である限り、彼の心情を諒とせざるはない、彼の刀剣を怖るることを知って、その心情を解するもののなきこそ、遺憾千万だ。見給え、彼は必ず成功するよ、新撰組の実権が一枚上席であった芹沢に帰せずして、近藤に帰したというのも、策ではない、徳だよ、おのずから人望が帰すべき道理あって帰したのだ、伊東甲子太郎の一派があれほどの後援をもちながら、近藤一派の手に殪《たお》されたのも、暴が正を制したとは言いきれない、近藤のために死ぬものと、伊東のために死ぬものとの、意気と意気との勝敗なのだ、意気と意気との戦いなのだ、意気が意気を圧倒したのだ、『人生意気ニ感ズ』というのが本当だな、人が一命を捧げて悔いない場合はただ意気あるのみだ、近藤勇は意気の男だ、彼は徹骨徹髄、意気を以てうずめている、名利それ何するところぞ!」
斎藤一は極端なる近藤讃美から、腕を扼《やく》して悲歌慷慨の自家昂奮に堪えやらず、滔々《とうとう》としてまくし立てる。ここに至ると、眼に相手を見ざること対談者と変らない。
「忠と孝とは冷やかな名分だ、ここに意気に殉ずる血脈が加わればこそ、冷やかなる忠と孝との名分が生きて来る、意気のない忠が何だ、意気のない孝が何だ」
彼は最初に涙を下した忠孝の名分のおごそかなるをも、ここに至って、冷やかなる一片の名分と見なして、意気の讃美論に転換してしまった。
「当代、意気に生きているものは近藤勇だ、彼は鬼ではない、男児の生命たる意気に生きている男だ、彼を鬼と見る奴は眼のない奴だ、天下は盲《めくら》千人の世の中だ、やあ失敬失敬、君に当てつけて言ったわけではないから、悪くとってくれるなよ」
と、ここに斎藤もわずかに余裕を得て、いささか弁解に落つるの変通を示すことができたのは、眼のない奴とか、盲千人とか言ったが、偶然にも、最初から、前にいて神妙な聞き役となって、自分が昂奮しても昂奮せず、悲憤しても悲憤せず、最初の通りに、唐金《からかね》の獅噛火鉢《しがみひばち》の縁に両肱《りょうひじ》を置いて、岩永左衛門が阿古屋の琴を聞いている時と同様の姿勢を崩さない当の談敵《はなしがたき》が、眼前に眼をなくしていることに、ふいと気がついたものだから失笑し、たあいなく釈明に落ちてしまったが、また猛然として気焔が盛り返して来て、
「それはまだいい方なのだ、一層下等な奴になると、彼が金銭のために働いている、利禄に目がくらんで盲動しとる――」
またしても目前、盲動と言い、差合いが眼前にあることに今度は気がつかず、躍起となって、近藤のために多々益々《たたますます》弁ずるという次第であります。
三十八
「なるほど、今日の近藤勇と、昨日の近藤勇とを比べて見ることしか知らぬやからは、彼が、さも過分の立身出世でもしたかの如く唇を翻す、将来もまた、彼がこの名聞利得《みょうもんりとく》の野心のために――殺人業を請負っているかの如く曲解したがる奴があるが、なるほど、彼は武州府中在の土
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