っしのっしと這い出して来たが、ドコへ行くかと見ると、橋杭《はしぐい》の太いのにとっつかまり、それを、なかなかの手練で攀《よ》じ上って、橋の上へ出ようとする。
 逃げ出したのではない、轟《とどろき》の源松これにありと知って、風を喰《くら》って逃出しにかかったのでないことは、その気分ではっきりわかる。つまり、あいつらは、この老練な猟師が網を張っているということを少しも知らない。ちょっと何か用達しに出かけて、やがてまたこの巣へ舞い戻って来るのだという気分は、源松にもはっきりと受取れるが、さりとて、舞い戻るまで、空巣へ網を張って株を守るの愚を為《な》すべきではない。源松も、急に手近な柳の木へ上手に攀じ上って、彼等の行動を注意して見ると、橋杭から橋板の上まで攀じ上った二人のお菰は、橋の東詰の程よいところまで来るとしめし合わせて、一方は橋の南端へ、一方はその北端へ居を占めて、そこの橋の上に横になって、お菰をさし繰り上げて自分の身体《からだ》を覆い、そこに平べったくなって寝込んでしまったのです。
 ははあ、こいつら、穴の中よりも板の上が寝心がいいと見えて、お寝間直しと洒落《しゃれ》こんだな、とにかく安心、橋上と橋下とは彼等にとって本宅と別邸との相違だ、どのみち、自分の縄張りを出ないのだから安心なものだ、どれ、この間に一番、空巣狙いと出かけて、この穴屋敷の中を取調べてくれよう、と源松はそろそろと柳から下りて、彼等がたった今、もぬけの殻とした穴っ子の中へ潜入して見ました。
 この忙しい折柄に、轟の源松は、燧《ひうち》をきってかがやかし、穴っ子の中を一通りのぞいて見たが、穴っ子の空巣である以外に別段に異状はない。天井も相当雨漏りと土落ちに備えてある。中には藁《わら》とむしろとが敷かれてある。その天井の上に仕掛けもありそうなことはなし、むしろの下にも特別に隠された物件はありそうもなし、ただ多少気にかかるのは、その敷物の真中に置き据《す》えられてある鍋釜だけのものです。いと古びた三升焚きの釜と、それに釣合いとしては小さきに過ぐる割れ鍋が安置してあるだけのものでしたが、源松は、まず釜の方の蓋《ふた》を取って見ますと、今時の乞食にしては贅沢千万、外米入らず、手の切れるような未炊の白米が八分目ばかり。手を入れてみたが、ザックという手ざわりのほかには異状がない。連合いの方はと、とじ蓋をとって見ると、割れ鍋の中に竹皮包の生々しい一塊、これも味噌以外のものでありようはない。この忙がしい折柄に一応、穴っ子の中へ眼を通すだけは通しておいて、次の瞬間に、源松は外へ飛び出し、再び橋上の職場へ取って返し、さて、仕事はこれからと、勇み足を踏みしめた途端、橋の上で突然、人をばかにしたような声が起りました、
「おいおい、吉田氏、竜太郎どの、何をそんなところで、うろうろしているのだ、気のきいた幽霊は引込む時分だ」
 その男は、菊桐の御紋章の提灯を提《さ》げていたのが、これも少々酔っていると見えて、声は大きいけれども、うつろです。呼びかけた相手の主は、誰か知らないが、ほかにそれと覚しい人もないから、多分自分が置きっぱなしにして来た送り狼のその当人だろうと思って、踏みとどまってみていると、果して、
「斎藤だよ、斎藤一だよ、一足違いで君に逢えなかった、君を御簾《みす》の間《ま》へ残して置いたのは、こういう時の頼みのためなんだ、君という男も、前には芹沢で立後《たちおく》れ、今は伊東でまた後手に廻る、仕様がないなあ、ともかく、これから月心院へ引上げよう」
 菊桐の紋のついたのがこう言って、忙がわしく橋桁《はしげた》の方へ近寄って、送り狼の身にからみつくようにした時、またもや橋上がにわかに物騒がしくなりました。
 人が来る、しかも、夥《おびただ》しい人数が来る、粛々として殺気を帯びて来る。殺気を帯びた人数の出動することは、このごろの京の天地に於ては物珍しとはしないが、時が時であって、源松の六感を震動させたのは、その一隊が手に手に武器を携えて、一方には夥しい提灯をかざして来る事の体《てい》というものが、普通の巡邏《じゅんら》とは巡邏のおもむきを異にし、いわば、うちいりを済ました後の赤穂浪人――或いはこれから吉良邸を襲いにかかろうとする赤穂の浪人が、まさに両国橋を渡りにかかった事の体なのであります。彼等は抜身の槍の光を月にかがやかしている、鞘走る刀のかがりを指で押えている。その一行が無慮数十人。粛々として橋板を踏み鳴らして来かかったものですから、さすがの源松も、これにはおどろかざるを得ません。しかも、その数十人の手に携えた提灯というものは、前に斎藤一と名乗る男が手にしていた御紋章の提灯とは事変り、「誠」の一字が楷書で、遠く離れていても歴々《ありあり》と読み取り得られるほどに鮮かに記されてあること
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