犬がただ犬でない非凡の犬であることの証拠としては、その大きさが、たしかに人間の二倍はあること。米友は人並よりずんと小粒ではあるけれども、それでも成長した人間であって、身長こそ四尺であるが、体重は十貫を下るということはないのに、犬はその面積に於て、米友を抱きすくめて存在を失わせるほどの体格があって、しかも全身が、猛獣のような虎斑《とらぶち》で彩《いろど》られている。体格はどう見倒しても確実に、その男の二倍はあるから、体重としても二十貫を下るということはない。
ムクも非凡な犬ではあったが、その体格の非凡さに於ては遥かにムクを凌駕《りょうが》する。およそ今日まで、これほどの大きな、非凡犬を見たことはない。犬に熟した米友が見たことがないのみではない、今の日本人である限り、これだけの犬を、ここで見るよりほかに見た人もあるまいし、見られる場所もあるまいに相違ない。
この無比の豪犬を相手に今、米友は組んずほぐれつしている。気が短くて、喧嘩っ早いにかけては名うてのこの小男は、ここへ来るともうこのザマだ。だが、格闘でも、喧嘩でもない、米友が犬を愛し、犬が米友に懐《なつ》く、一見旧知の如しというのがこれで、人に許さざる犬が、米友には許す、猫がまたたびに身を摺《す》りつけるように、犬の眼から見ると、米友はまたたびのような人種で、慕い寄られる素質を持っている。
同時にまた、米友の方でも、無意味にこうして愛着の組討ちをしているのではない、実はその愛情を事実に示そうとして、もがいているのです。というのは、この犬は首に鉄の環《かん》をハメられて、首が二重に麻の太縄で結えてある。それを外してやろうとしてもがいているのです。
犬というものは繋《つな》がれる時に騒がないで、解かれる時に狂うものである。この犬を、その鉄の鎖と荒縄から解放してやりたいために、米友は犬と組討ちをしている。犬もまた、米友を慕うだけではない、この理解者の手によって、暫《しば》しなりとも広漠な野性に返してもらいたいがために焦《あせ》っている。犬も力が非凡だが、米友もまた非凡な力を持っている。非凡同士が組討ちをして容易にほぐれないのは、環にかけた合鍵の調子がよくわからないからである。米友がその勝手に迷っている間に、犬は解放を予期して容赦なく喜び狂うから、それで、外目《よそめ》にはいつまでも大格闘が続くようにしか見られないので
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