て置いて上げますから、ちょっとの間でいいから、そうなさい。今までこの深い山々谷底を野伏《のぶせり》同様の姿で道行をして来た仲じゃありませんか、あたしの身になっても、あたしの家と名のつくところで、一晩でもあなたを泊めて上げたい、そうしなければ、あたしの胸が納まらない、あたしの意地も立たないわよ。ぜひ、そうなさらなければ、放して上げないことよ」
 福松の願いが、泣き声になって、こう口説《くど》き立てたのは、一つの真実心と見るべきです。だが、今日は兵馬が、道行の道中の時のように、即《つ》かず離れずの煮え切らない受け答えはしない、いよいよ言葉を改めて、いよいよきっぱりと、
「いや、お志は有難いし、情合いのほどもよくわかります、けれども、あなたの安定は、拙者の安定ではない、今日まで、縁あってあの道中、助けつ助けられつしてここまで来たのは、君の方で拙者に親切をしてくれたから、拙者もまた乗りかかった舟、仏頂寺、丸山の徒ならば知らぬこと、かりそめにも女の身一つを、山の中へ投げ出して、お前はお前、わしはわし、どうにでもなれと不人情のできない羽目に置かれたから、それで、心ならずも――ここまで同行をして来たのです、ここへ来て、君の一身が、もう全く心配がない、安定の見込みがついたとなれば、拙者の使命は完全に果されたのだ、この上、君の御好意に随うのは、もう人情の上を越えた溺没――少し言葉がむずかしいが、今まではおたがいに親切、これからはおたがいに溺れるということになり兼ねない。且つまた、これでも一匹一人の男が、君を稼がせて、その仕送りの下に、たとえ一日でも半日でも、いい気で暮していられるか、いられぬか、その辺のことは、君が拙者の身になり代って考えてみてもらわにゃならぬ。人間、別れる時に別れないのは未練というもので、あとが悪いにきまっている、人情は人情として、今日から、きれいに君とお別れする、このことは、もはや、何とも言ってくれるな、拙者の心底はきまったのだから、誰が何と言おうとも動かすことはできない、拙者は今日から出立します。出立については――」
 別れと覚悟の断案を下して置いて、何か条件的に申し置こうとする兵馬を、福松はあわてておさえてしまい、
「いけないわ、いけないことよ、それはわたし聞かない、今も、おっしゃったじゃありませんか、どちらがお世話になったか、お世話になられたか、そんなことは
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