存じません、今、おっしゃったじゃありませんか、乗りかかった舟だから是非がない――ほんとにそうなのよ、あなたと、わたしと、これまで同じ舟に乗って、艱難《かんなん》だけを共にし合って、おたがいにこれから帆を揚げようというところで別れるなんて、それは乗りかかった舟を川の中で捨てるというものです、捨てるあなたが薄情なのよ、捨てられるわたしは、たよりなぎさの捨小舟《すておぶね》……人間、別れる時に別れないのは未練で、あとが悪い、よくおっしゃいましたね、未練が残るくらいの別れは、本当の別れではないのよ。あなたという方は、信濃の中房から途中でもあんなにして、わたしを捨ててしまい、ここでもまた、わたしの身が、どうやら落着いたと聞いて、もう浮わついて別れようとなさる、それこそ、未練とも卑怯ともいうものじゃなくって、かりそめにも女の身一つを山の中へ投げ出して、お前はお前、わたしはわたし――と不人情はできないと、今もおっしゃいましたわね、ここでわたしを振り捨てるのが不人情でないと誰が申しました、ほんとにわたしの運命を見届けて下さる御親切がお有りならば、これからじゃありませんか」
福松は泣きじゃくりながら、立てつづけて口説《くど》き立てますが、今日は山道中の手管《てくだ》とは違います。兵馬の方でもまた、道中の時の煮え切らない挨拶とは違って、いよいよキッパリと、
「人の運命を見届けるということは不可能なことです、その人と生涯を共にしない限り、その人の末の末までの運命がわかるものじゃないです、人の一生は道中のようなものであるから、泊り泊りの一夜を、即ち生涯の運命の終りとして、途中の別れに未練があってはならない――いずれにしても、拙者の心はきまっている、誰がどう言っても立ちます」
彼は早や行李《こうり》を引きまとめにかかるので、福松もただ泣いて口説いてばかりはいられないのです。
五十五
「そうおっしゃられてしまうと、わたしには、このうえ何も申し上げられないわ、その人と生涯を共にしない限り、その人の末の末までの運命は見届けられない、その通りでございます、あなたと、わたしと、生涯を共にして下さいと言わない限り、この上あなたをお引きとめすることはできませんのねえ。あなたのような行末の有望なお方を、わたしのような股旅者《またたびもの》が引留めようのなんのと、そんなだいそれた心は
前へ
次へ
全201ページ中125ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング