というものを知らない、使いつくしてはじめてお宝の有難味を知るなんて、子供にも劣るわねえ、わたしに使わしてごらんなさい――一生使ってみせるから」
福松は、その都度、こう言って、三百両の金包を撫《な》でて自分の気を引立てたり、兵馬を心強がらせたりしようとする。無論、この三百両の金を、器用に活かして使いさえすれば、ここ幾年というものは、二人がこうして旅を遊んで歩くに不足はない、不足はさせない、という腹が福松にはあるのです。その証拠には、飛騨からここへ山越しをして来る間、若干の日数のうち、いくらの金を要したかと言えば、金は少しもかからない、たまに木樵山《きこりやま》がつ[#「がつ」に傍点]に、ホンのぽっちりお鳥目《ちょうもく》を包んで心づけをしてみれば、彼等は、この存在物を不思議がって、覗眼鏡《のぞきめがね》でも見るように、おずおずとして、受けていいか、返していいか、持扱っている。旅というものは、金のかかるように歩けば際限なく金がかかるけれども、金をかけないつもりで歩けば、全くかけないで歩くことができるもの――いやいや、やりようによってはお宝を儲《もう》けながらの旅、万が一にも行きつまれば、わたしには腕というものがある、身を落す気になりさえすれば、いずれの里でも、腕に覚えの色音を立てて人の機嫌気づまを浮き立たせさえすれば、三度の御飯はいただける。その上一人や二人の身過ぎ世過ぎは何の苦もないと、福松は、いよいよの際の芸が身を助ける強味をも算用に入れているから、世の常の浮気者や、切羽つまった心中者の、身も魂も置きどころのない、ぬけがらの道行と違って、いわば経済的の根拠がある。今まで、山に千年もいたから、これから海で千年の修行をしたい――なんぞと、世間を七分五厘にする余裕さえ持てるようになっている。
宇津木兵馬になると、そうはゆかないのであります――白骨から、飛騨の平湯へ出て、高山まで、旅の遊山で浮《うわ》つき歩いているのではない、求むる敵《かたき》がありと思えばこそ――それが、どう聞き間違えたか、南へ外《はず》れたものを、北へ向って走り求めているという相違にはなっているが、求むる目的というものがあるにはあって、それに煽《あお》られている。無目的と、享楽と、その刹那刹那《せつなせつな》を楽しんで行こうという女と調子は合わせられない。
ただこういう女に、こういう際に持ちかけら
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