躍が許されないところに、清新があり得ようはずがない。意気|溌溂《はつらつ》たる青年は、その意気の溌溂を、どこに行ってもハケ口を見出すことができないから、滔々《とうとう》として不良に堕《お》ちるよりほかに行く道がない。その硬なるは喧嘩と遊侠に鬱屈を洩《も》らし、その軟なるは花柳に放蕩《ほうとう》するよりほかに行き場所がないではないか。
うんで、つぶれて、腐りかかっている徳川末期の泰平の空気――なるほど、西南で又者が騒いでいるというも無理はない。事実、これは何とかしなければ仕方がない。この時代を何とかしなければ仕方がない。この自分を何とかしなければ仕方がない。
それでも、勝のおやじは、息子という傑作を残したけれども、おれのしたことは放蕩が放蕩を産んだだけだ。
何とかしなければならない。
神尾主膳は今更、身に火がついたように身ぶるいをしました。
神尾主膳には、特に尊王佐幕のイデオロギーがあるわけではなく、世道人心に激するところがあるというわけではないが、何ぞ知らん、やっぱり時代の潮流の圧迫というものを身に受けているのでありました。持って生れた、なにがしかの血性というものが、磁石に吸い寄せられるように、物理的にその大きな潮流に吸い寄せられていると見れば見られるのでありました。そうして、意識せずに、考えが深刻に進みつつある時であります、次の間から、およそ時代とはかけ離れたおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の声として、
「今日は、よいお天気で……殿には、御機嫌いかがにあらせられまするや、かねての大望、意志と教養の御著作――さだめて見事に御進行のことと拝察――鐚《びた》儀、芸娼院を代表してお見舞に罷《まか》り出でました」
「鐚か――」
こういう奴が来たので、神尾がうんざりしました。
六十
事を意識せずして深刻に考えたり、絶望に傾いたりする時、このおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]が来ると、とにかく、気分が発散したりする。善友も、悪友も、このところでは、おたがいにあんまり近づかないことになっているが、こいつばかりは臆面なくやって来るものですから、神尾も気紛れに相手になっている。なんらの理窟があるのではない、こいつの面を見て、およそ時代離れのした恥知らずをながめると、気分が発散しないという限りもない。
「鐚か――まあ、入れ」
「まず御健勝、金主、一万両――宝の入船――鐚の計画、ことごとく成就《じょうじゅ》、近来のヒット――」
何か続けざまに口走って、懐ろは手一ぱいにふくらまして、てんてこ舞をはじめた眼の色が穏かでない。穏かでないと言って、こいつのことだから、寸毫《すんごう》も危険性はないことはわかっているが、何かよくよくの喜びが出来たに相違ないと思いました。
「どうした、気でも狂ったか、シルクの売込みでも、もの[#「もの」に傍点]になったか」
「どう致して、そんなんじゃあござんせん、かねて鐚《びた》が計画の芸娼院――そいつがいよいよ成立を致しましてな、さるお大尽から大枚金一万両というもの補助がつきました、金主一万両、鐚一代の大望成就《たいもうじょうじゅ》!」
ははあ、そのことでかくもてんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞をしているのか、帝国芸娼院というのは、洋妾《ラシャメン》立国論と共に、こいつの二大名案であって、先日来て、べらべらと能書をしゃべり立てて行った。それでは誰か本気に取上げる旦那があって、たとえ一万両でも、この時節に金を出そうという好奇《ものずき》が出たのだな、時勢は時勢だというが、まだ世間は広いものだ、鐚に口説き落されていくらか出そうという金主が出たのだな。
帝国芸娼院というのは、前巻の終りの方(第十八巻、農奴の巻九十回)に見えていたこのおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]独流の名案で、この趣旨とするところは、
「拙の案ずるには、近い将来に於て『帝国芸娼院』てえのを一つでっち上げて、世間をあっ! と言わせてみてえんでございます。そもそも、設立の趣旨てやつを申し上げてみまするてえと、毛唐というやつがまだ本当の日本を認識していねえんでげす、日本人ナカナカキツイあります、刀を使う上手アリマス、人を斬る達者アリマス、勇武の国アリマス、芸事できない、芸事できない国野蛮アリマス、こう吐《ぬか》しやがるのが癪《しゃく》なんでげして、異人館なんぞへまいりまするてえとテブルの上で、毛唐の奴がよくこんな噂を吐しやがるんでげす。その度に拙は発憤を致しましてね、ばかにしなさんな、日本にもこのくらいの芸事がある――てえところをひとつ見せてやりてえんでげして――そこで、その帝国芸娼院てやつを大々的にもくろみの……日本には芸娼妓でさえ、これこれの芸術がある、遊女でさえ、高尾、薄雲なんてところになると、これこれの文学がある、というところを、毛唐に見せてやりてえんでげすが、いかがなもんで……」
「そうするとつまり、日本中の芸者と女郎を集めて毛唐に見せてやりてえと、こういう目論見《もくろみ》か」
「いえ、どう致しまして、そんな浅はかなお安いんじゃござんせん、日本のあらゆる芸事という芸事の粋を集めて、これこの通りと言って、毛唐に見せてやりてえんで、芸娼院という名前は仮りに鐚がつけてみただけのものなんで――もっとしかるべき名前がありさえ致せば御変更のこと、苦しくがあせん。仕掛が大きいだけに、人選てやつが難儀でげして、まずあらゆる芸人という芸人の粋の粋なるもの百人を限って選り抜きの――なにも芸娼院と申したところで、芸妓と娼妓ばっかりを集めるという趣意ではがあせん、とりあえず、美術でげす、日本は古来、美を尚《たっと》ぶ国柄でげして、絵の方にはなかなか名人が出ました、御承知の通り……ところで、とりあえず狩野家の各派の家元を残らずメムバーに差加えます、それから、四条、丸山、南画、北画、浮世絵、町絵師の方のめぼしいところを引っこぬいて、これに加えます、拙が見たところでは、絵かきの方から都合五十八名ばかり、えりぬきの……それから戯作《げさく》の方なんでげす、これは刺身のツマとして……八名ばかり差加えようてんで……絵かきが五十八名もいて、文書《ぶんか》きが八名では比較が取れまいとおっしゃる――そこでげす、文書きの方は、どうしようかと考えてみたんでげすが、拙がひそかにこの計画を洩《も》らしやすてえと、ぜひ幾人でもいいから差加えていただきてえ、絵かきの下っ端で結構、刺身のツマとして、ぜひ差加えていただきてえと、先方から売り込んで来るんでげすから、のけるわけにいかねえんでげす、そこで、刺身のツマとして文書きを八名ばかりがところ、差加えてやることに致しやした――それから書道の方でがす、次は役者――この役者てえやつが、おのおの家柄があったり、贔屓《ひいき》があったりして、いちばん事めんどうなんでげして、鐚もこれが人選には困難を極めやした――それから長唄、清元、常磐津、新内、芸者の方からは誰々、お女郎はこれこれ――和歌と、発句と、ちんぷんかんぷん――委細のわりふりと、面ぶれはこの一札をごらん下し置かれましょう、これが、拙の苦心惨憺たる帝国芸娼院の面ぶれなんでげして……」
だいたい右のような趣意で、このおっちょこちょいの野郎がもくろんだ、そのたわけへ、今度、一万両出す金主がついた――この野郎が有頂天《うちょうてん》でよろこぶのも無理はない。それを神尾が納得したと見て取って、この野郎が、立てつづけに並べることには、
「有難い仕合せで――え、へ、へ、へ。ところで、せっかくありついた、この大枚一万両の使用方法についてでげす、今度また新たに鐚が産みの親心てやつで、苦心惨憺を致さなけりゃ相成らん、なんしろ絵かきが五十八人もいて、文書きの方はたった八名、一万両がとこを、その方に割りふるてえと、また分前でもんちゃく[#「もんちゃく」に傍点]が起るに相違ねえ、そうなると、鐚がせっかく創立の功も玉なし、よって、これが分前に就いて、慎重なる考慮を払わなくちゃならねえんでげして、何か殿様、よいお知恵がございましたら拝借――お願い……」
「馬鹿――そんな要らねえ金があるなら、時節柄、大砲の一つもこしらえて、品川のお台場へ献納しろ」
「いや、そう物事を現実にばかりお取りになっては、人生に潤いというものがございませんな。せっかくのことに、鐚が思案を致しましたところによりますと、この一万両の公平なる分配に就きましては、大盤振舞《おおばんぶるまい》――つまり、惣花主義で会員一同に恨み越えなく行き渡るように公平なる分配を致したいと存じまして、その一万両で、そっくり、河岸《かし》へまいりましてお刺身を買い占めたいとこう思うんでげすが、いかがなもんでがんしょう」
「ナニ、河岸へ行って、一万両の刺身を買い占める――そうして、それをどうするのだ」
一万両は多くはないが、それでも一万両の刺身を買い占めた者は江戸開府以来いまだあるまい。紀文、奈良茂《ならも》の馬鹿共といえどもよくせざるところ、鐚の計画の奇抜なるには、さすがの神尾も、ちょっと面負けの形で眼をみはると、鐚はいよいよ乗気になって、
「一万両がとこ、お刺身を買い求めましてな、それで、赤いところを絵かきに食わせ――青いところを文書きに食わせる、そういう御馳走の配膳に致しましたならば、一同否やはござんすまい」
「ふーん」
こいつ、どうやら、正気でこれを言っているらしい。こういう奴に御勘定奉行をさせれば、公儀の金を掴《つか》み出して、女郎買いをもやり兼ねないと、神尾も底の知れない馬鹿さ加減に、口あんぐりとその面《かお》を見直していると、鐚《びた》はいよいよいい気になり、
「このお刺身の大盤振舞がスミますてえと、その次には、もう一つ、あっ! と言わせる趣向が秘めてあるんでがんして……」
それを大得意に弁じ立てましたのを聞いていると――
「なんしろ、こういう険悪な時代でげすから、つとめて人心を和《やわ》らげるように、和らげるようにと楫《かじ》を取って行かなければならないんでげして、強いばかりが取柄ではがあせん、つまり毛唐に対しても、日本にはこのくらいの芸術があるてえところを、見せてやりてえのが芸娼院の本意でげすよって、この次には日本の文学をひとつ、海外進出てえ方面にウンと馬力をかけてみようてえんでげすが、万葉古今となりますてえと、なかなか調べが古うござんして、毛唐の頭には入りにくいんでげすから、まず小説の方からはじめるてのが、わかりがよくてよろしかろうと思うんでげすが、いかがなもので」
「まあ、何でもいいようにやってみろ」
「まず御承認の、その小説という段になりますると、まず長篇大作というところから見廻しまするてえと……日本に於きまして、上古に紫式部の源氏物語――近代に及んで曲亭馬琴の南総里見八犬伝――未来に至りまして中里介山居士の大菩薩峠――」
大菩薩峠も、鐚の口頭に上ったことを光栄としなければなるまいが、御当人はしゃあしゃあ[#「しゃあしゃあ」に傍点]としたもので、
「まず日本有数の長篇大作を、ペロに書き改めましてな、それを毛唐に読ませるように仕向けるんでげす。長篇大作が必ずしも優れたりという儀ではがあせん、中篇小篇に優れたものが多くこれ有るんでげすが、とりあえず、長篇大作をペロに(ペロとは外国語ということ)書き改めて、毛唐に見せてやる。ところで、その選択てえことになりまするてえと――」
鐚は咳を一つして、一膝押進ませ、
「上代に於て源氏物語、近代に於て八犬伝、この二つは日本に於て、名立たる長篇大作でげして、世界にも類のないものだと承りました。尤《もっと》も未来に於きましては、大菩薩峠などというやつが出て参りまして、これは八犬伝に源氏物語を加え、これに何倍をしてもまだ足りない代物《しろもの》と聞きましたが、こんなのは化け物のようなもので、人間の仲間へは入りません、よろしく敬遠黙殺の――とりあえず、源氏物語と、八犬伝と、この二つの中から選定を致しますんでげすが、鐚はいったい馬琴が嫌いで
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