、刀を取って見たら、相州物にて二尺九寸。そこでおれの差料を見せたが、平山先生より貰った三尺二寸の刀ゆえ、兼吉め大いにひるみおったから、つけこんで高慢を言い返してやった。それから試合をしようと言ったら何と思ったか、今日は御免とぬかしおる故、日限を約束して、兼吉のところへ行くつもりにして、下谷連へ言ってやったら、四五十ばかり集まった故、兼吉へ手紙を持たせてやったら、ただいま屋敷へ来るとて、返事はよこさず、待っていたら、近藤の弟子の小林めが肩衣《かたぎぬ》なんど着おって、おれのところへ来て、いろいろあつかいを入れて、兼吉にわびをさせるから了簡しろという故、急度《きっと》念をしたら、こののち兼吉がお前様をかれこれ言ったら、私が首を献じますと言うからゆるしてやった故、本所はたいがい、おれの地になった。

この年、芝の片山前にいる湯屋が、向うの町へ転宅をすることにて仲間もめがして、山内の坊主が町奉行の榊原へ頼んであると言って、金弐十両とったが、もとよりウソ故に、その湯屋がほんとうにして、右の趣を奉行所へ願出にして出したら、奉行所で言うには、湯屋は樽屋三右衛門のかかりだから差越願だとて取上げぬ故大いに困った。中野清次郎というものがおれに頼んだから、幸いおれが従妹《いとこ》の女が樽屋へ嫁に入っているから、その親父の正阿弥というものは心安いから、頼んでやろうと言ったら、悦びその坊主をつれて来たから、おれが正阿弥のところへ行ってわけをだんだん話して、それより樽屋へいってやったら、樽屋が承知して、奉行所より願出を下げて、そうほう利害を言って、その湯屋が向うへ引越したが、嬉しがった。その礼に、樽屋へ三十両、正阿弥へ二十両、おれに四十両くれた。それからは酒井左衛門の用人の妾《めかけ》が持っていると言いおった。湯屋は向うへ普請をすると八十両株が高くなると清次郎が話した。

この年、またまた、兄と越後蒲原郡水原の陣屋へ行った。四方八方巡見したが面白かった。越後には支配所のうちには大百姓がいる故、いろいろ珍しき物も見た、反物金《たんものきん》をもたんと貰って帰った。

それから江戸へ帰ったが、近藤弥之助の内弟子小林隼太が男谷の方へ替え流して力んだが、あばれ者ゆえに、みんなが怖《こわ》がっているから、相弟子どもをばかにしおる故に、おれにも咄《はなし》があった故、隼太めを目に物見せんと思っていたが、久しくかぜを引いて寝ているから、それなりにして置いた。或る日少し気分がいいから、寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様一本願いたいとぬかすから、見る通り久しく不快で、今に月代《さかやき》も剃らずいるくらいだが、せっかくのことだから一ぽん遣《つか》いましょうと言って遣ったが、まず二本つづけて勝ったら、小林が組みついたから腰車にかけて投げてやると、仰のけに倒れたから、腰を足にておさえて咽喉《のど》を突いてやった。その時、小林が起き上り、面《めん》を取って、おれに言いおるには、侍を土足にかけて済むか済まぬかとぬかすから、これは貴公の言葉にも似ぬ言い事かな、最初のたちあいに、未熟ゆえ指図してくれろと御申し故、侍の組打ちは勝つと斯様《かよう》のものだと仕形をして見せたのだ、言い分はあるまいと言ったが、御尤《ごもっと》も、一声もござりませぬと言いおった。それから、おれを暗討《やみう》ちにするとて、つけおったが、時々油断を見ては、夜道にてすっぱ[#「すっぱ」に傍点]抜きをしてきりおったが、時々、羽織など少しずつ切ったが、傷は附けられたことはなかった。それからいろいろしおったが、おれも気をつけていた故に、或る時、暮に親類に金を借りに行った時に、道の横町より小林が酒をくらった勢いで、おれが通ると、いきなり、出ばなの先へ刀を抜いてつき出した、昼だから往来の人も見ている故、その時おれが、わざとふところ手をしていて、白昼になまくらを抜いてどうすると言ったら、小林がこの刀を買いましたが、切れるか切れぬか見てくれろと言うからよく見て骨ぐらいは切れるだろうと言ったら、鞘《さや》へ納めて別れたが、人が大勢立ちどまって見ていた。古今のめっぽうけい[#「めっぽうけい」に傍点]者だ。

十八の歳に身代を持って兄の庭の内へ普請をして引移った。その時、兄から三百両ばかりの証文と家作代を家見にくれた、親父よりは家財の道具を一通り貰ったから、無借になって嬉しかった。それからいろいろの居候者が多く来おったから、いくらも置いたから借金が出来たよ。

十九の年、正月稽古始に、男谷道場で、東間陣助と平川右金吾と大喧嘩をして、たがいに刀を持って稽古場へ出てさわいだが、その時もおれが引分けて、ようよう和睦させた。

この年より諸方の剣術遣いを大勢、子分のようにして諸国へ出したが、みんなおれが弟子だと言って歩く故、名が広くなってきた。それから本所中の、いい頭をしているのらくら[#「のらくら」に傍点]者を残らず置いて、みんなおれが差図に従えた故、こわいものはなくなったが、それには金もいるし、附合いが張ったから、たいそう借金が出来た。

また他流試合を商売のようにして、毎晩、喧嘩にみんなを連れて歩いた。ある時、平山孝蔵という先生へも行って、いつもいつも和漢の英雄の咄《はなし》を聞いては、みんなをしこなしていた。それから、いろいろ馬鹿ばかりしていたから、身上が悪くなってきて、借金がふえるばかり、仕方がないから、出来ない相談に、むやみに借金をしていたが、二十一の年には、一文もなくなって仕様がなかったから、差料の刀は、おわりや久米右衛門という道具屋より買った盛光の刀、四十一両で買った故、それを売ろうかと思ったが、それも惜しいからよしたが、あいたいに行くにも着たままになったから、気休めに吉原へ行って、翌日、車坂の井上の稽古場へ行き、剣術の道具を一組借りて、直ちに東海道へかけ出した」
[#ここで字下げ終わり]

 またしても駈落《かけおち》かと、読んで神尾が苦笑しました。
「なるほど、乞食は三日すれば忘れないというが、性《しょう》についたな」

         五十九

 さてこれからが、勝小吉再度の駈落物語となる。
[#ここから1字下げ]
「その日は、むこくに歩いて、藤沢へ泊って、朝七ツ前に立って、小田原へ行って、先年世話になっていたうちの喜平次を尋ねて行ったが、喜平次も、乞食がさむらいに化けて来たものだから初めは不審した。喜平次のうちを出た亀と言ったら、ようやく思い出して、いろいろ酒など振舞ったが三百文盗んだことを言い出して、金を二分二朱やったほかに酒代《さかて》を二朱出して、以前、船へ一しょに乗った野郎共を呼んで酒を呑まして、今は剣術遣いになったことをはなして笑ったら、みんなが肝をつぶしていた。今晩はぜひとも泊れと言ったが、江戸より追手が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って箱根へかかった。
喜平次とほか三人ばかり三枚橋まで送って来たが、そこよりかえして、ようよう関所へかかったが、手形がないから、関所の縁側へ行って、剣術修行に出でし由申して、お関所を通して下さいと言ったら、手形を見せろというから、そこでおれが言うには、御覧の通り江戸を歩行通りのなりゆえ、手形は心づかず、稽古先より計らず思いついて、上方へ修行に上り候《そうろう》、雪踏《せった》を穿《は》き候まま、旅支度も致さず参りしこと故、相なるべくはお通し下され候様に、と言ったら、番頭《ばんがしら》らしきが言うには、御大法にて手形なき者は通さず、しかしお手前の仰せの如く、御修行とあれば余儀なき故、お通し申すべし、以来はお心得なさるべしと言った故、かたじけないとて、それから関所を越して休んでいたら、後より来た商人が言いおるには、いま私が関所を通りましたが、おまえ様の噂《うわさ》をしてござったが、いま通った侍は飛脚でもないが、藩中でもなし、何だろうとて噂をしていましたと言うから、そのはずだわ、おれは殿様だからと言ってやった。

[#底本では1字あき]山中で日が暮れて宿引女が泊れとてぬかしたが、とうとうがまんで三島まで着いたら、四里が間、二十九日の日だから、まっくらがりで難儀した。雪踏を脱いで腰へはさみ、ようよう、夜九ツ時分、三島へ来て、宿へかかって戸を叩き、泊めてくれろと言ったら、
『当宿は韮山様《にらやまさま》がお触れで、ひとり旅は泊めぬ』
と言うから、問屋場へ寄って、起して宿を頼んだら、そいつが言いおるには、
『問屋が公儀のお触れは破れぬ、差図はできぬ』
ときめるまま、そこで、おれが言うには、
『海道筋三島宿にては、水戸の播磨守《はりまのかみ》が家来は泊めぬか、おれは御用の儀が有り、遠州雨の宮へ御きかんの便りに行くのだが、仕方がないから、これより引返して、道中奉行へ屋敷より掛合う故、それまでは御用物は問屋へ預け参るから大切にしろ』
とて、稽古道具を障子越しに投げ込んだ。そうすると、役人共が肝をつぶし、起きて出おって、土に手をつきおった。
『播磨様とは存ぜず不調法、恐れ入った』
といろいろあやまるから、図に乗って、
『荷物は預けるから、急度《きっと》、受取をよこせ』
と言ったら、困りおって、ほかに二三人も出て這《は》いつくばり、いかようにも致しますから、まずまず宿屋へ行って少しのうち休足してろと言うから、ようよう案内と言ったら、脇本陣へ上げおって、だんだん不調法のわけをわびおり、飯を出したら、役人が重ねて、当宿の宿役人が残らずしくじるから、なにぶんにも勘弁しろと言うから、腹が癒《い》えたゆえゆるしてやった。そうすると酒肴を出して、馳走をしおった。その時、書附をよこせと言ったら、それによってそれも出すまいと言った故、またまたひっくり返してやったら、金を一両二分出して、またまたあやまりおった故、金が思いよらず取れる故、済ましてやった。そのうちに夜が明けかかったから、寝ずに三島を立ったら、道中籠を出したから、先の宿まで寝て行った。そのはずだ、稽古道具へ、箱根を越し、水戸という小札を書いて差して置いたものだから、うまくいったのだ。
おれが思うには、これからは日本国を歩いて何ぞあったらきりじにをしようと覚悟して出たから何も怖いことはなかった――」
[#ここで字下げ終わり]

 ここまで読んで神尾主膳が感じたことは、個人的の興味ではなく、この破格な行状記の後ろに動いている時代の空気というものでありました。
 江戸徳川氏の末期の、空気のどろどろになって、どうにも動きの取れない停滞が、この勝の親父を産んだのだ。いや、勝の親父だけではない、自分の如きは、まさしく、そのどろどろの沼の中の産物の指折りでないとは言えない、そういうことを神尾主膳が自覚せしめられました。
 江戸末期の停滞が産んだ、我々旗本浪人のうちの不良に二種類がある、それは硬派の不良と、軟派の不良だ。
 その勝の親父の如きは、当然、硬派の不良に属してるが、自分の如きは、これに比べれば、いくらか軟派に傾いているかも知れないが、自分より以下の軟派はまだまだある。いわば、硬軟両面を兼ねた自分ではある、ということに神尾が分類をしてみました。
 自分の放埒《ほうらつ》を時代になすりつけるわけではないが、まあ、この徳川末期の時代というものを一渡り見てみるがいい、おれは三千石だし、勝のおやじは四十俵だ。格式に於ては天地ほどの差があるけれども、時代を同じうした徳川幕下の士ということに於ては少しも変った存在ではない。
 泰平二百何十年、もう、この江戸文化も熟しに熟しきってしまっている。三千石の家に生れたおれも、四十俵の高をついだ勝のおやじも、行きつまっているということに於ては全く選ぶところはない。もう、徳川の天下では、三千石は三千石より生きようはない、四十俵は四十俵のほかに動きがとれないことになっている。三千石が立行かなければ、四十俵も立行かない。おれは三千石の自暴《やけ》、勝は四十俵の自暴だ、自暴に於ては優《まさ》り劣りはないのだ。
 およそこの時代に於ては、身分の高下、禄高の大小を問わず、飛躍ということがどの方面にも許されない。飛
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