あいたいをつとめたが、頭《かしら》の宅で帳面が出ているにめいめい名を書くのだが、おれは手前の名が書けなくて困った。
人に頼んで書いてもらった。石川があいたいの後で、乞食をした咄《はなし》を隠さずしろと言ったから、初めからのことを言ったら、よく修業した、いまに番入りをさせてやるから、しんぼう[#「しんぼう」に傍点]をしろと言われた。
またうちでは、ばばアどのがなおなおやかましくなって、おのれは勝の家をつぶそうとしたな、といろいろ言いおって困った故、毎日毎日うちにはいなんだ。
兄貴の役所詰に久保島可六という男があったが、そいつがおれをだまか[#「だまか」に傍点]して連れて行きおったが、面白かったから毎晩毎晩行ったが、金がなくって困っていると、信州の御料所から御年貢《おねんぐ》の金が七千両来た、役所へ預けて改めて御金蔵へ納めるのだ、その時おれに番人を兄貴が言いつけたから番をしていると、可六が言うには、金がなくては吉原は面白くないから、百両ばかり盗めと教えたが、(神尾|曰《いわ》く、悪いことを教える奴だ)おれもそうだと言って(そうだと言う奴があるか)千両箱をあけて二百両取ったが(そらこそだ)あとがガタガタするゆえ困ったら、久保島が石ころを紙に包んで入れてくれた故、知らぬ顔でいたが、二三月たつと知れて、兄きがおこったが(おこるのがあたりまえ)いろいろ論議をしたら、おれが出したと役所の小使めが白状しおった故、おれに金を出せとて兄きが責めたが、知らぬとて強情をはり通したが、兄が親父へそのわけを話したら、親父が言うには、手前も、年の若いうちに度々そんなことはあったっけ、僅かの金で小吉を瑕物《きずもの》にはできぬ故、何とか了簡《りょうけん》してみてやれと言った。そこで、いよいよおれが取ったに違いない故それきりにして、誰も知らぬ顔で納まった。おれはその金を吉原へ持って行って一月半ばかりに使ってしまったが、それから蔵宿《くらやど》やほうぼうを頼んで金をつかった」
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 いったい、その親共なり、支配頭なりが、厳しいのか甘いのかわからぬ。自分もやっぱり、この厳しいような、甘いような江戸の家風に育った一人だ。勝のおやじのためには、たしかにそれが子孫への教訓にもなるようなものだが、おれのはなんにも残らぬ、と神尾がやや自覚しました。それから読みついで行くと、いよいよ大変なもので……
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「ある日、おれの従弟《いとこ》のところへ行ったら、その子の新太郎と忠次郎という兄弟があるが、一日、いろいろ咄《はなし》をしたが、そこの用人に源兵衛というのがいたが、剣術遣いだということだが、おれに向って言うには、
『お前さんは、いろいろとあばれなさいますが、喧嘩はなさいましたか』
と言うから、おれが、
『喧嘩は大好きだが、小さいうちから度々《たびたび》したが面白いものだ』(こういう野郎だ)
と言った。
『左様でござりますか、あさって蔵前の祭りでありますが、一喧嘩やりましょうから、一緒にござらっしゃいまして、一勝負なさいまし』(火事場へ油をさしに行けという奴がある、いやはや)
と言ったから、約束をして帰った。
その日になりて、夕方より番場の男谷《おたに》へ行ったら、先の兄弟も待っていて、
『よく来た、今、源兵衛が湯へ行ったから、帰ったら出かけよう』
と支度をしていると、まもなく源兵衛が帰った。それより道に手筈《てはず》を言い合わせて、八幡へ行ったが、みんなつまらぬ奴ばかりで、相手がなかったが、八幡へ入ると、向うより、きいたふうの奴が二三人で、鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎が、そいつへ唾を顔へしっかけたが、その野郎が腹を立て、下駄でぶってかかりおった、そうすると、おれが握り拳で横つらをナグってやると、あとのやつらが総がかりになってかかりおるから、めくらなぐりにしたら、みんな逃げおった故、八幡へ行ってぶらぶらしていると、二十人ばかりなが鳶《とび》を持って来おった、何だと思っていると、一人が、
『あの野郎だ』
とぬかして、四人を取りまきおった。それから刀を抜いて切り払ったら、源兵衛が言うには、
『早く門の外へ出るがいい、門を締めるととりこ[#「とりこ」に傍点]になる』
と大声に言うから、四人が並んできり立て、門の外へ出たら、そいつらの加勢と見えてまた三十人ばかり、鳶口を持って出よったから、並木の入口の砂蕎麦《すなそば》の格子を後ろにして五十人ばかりを相手にして叩き合ったが、一生懸命になって、四五人ばかり傷を負わしたら、少し先が弱くなった故、むやみにきり散らし、鳶口を十本ほども叩き落した、そうするとまたまた加勢が来たが、梯子《はしご》を持って来た、その時、源兵衛が言うには、もはやかなわぬから三人は吉原へ逃げろ、あとは私が斬り払い帰るからと、早く行けと言ったが、三人ながら、源兵衛ひとりを置くを不便《ふびん》に思い、一緒に追いまくって一緒に逃げようと言ったら、
『お前さん方は怪我があっては悪いから、ぜひぜひ早く逃げろ』
とひたすらに言う故、おれが、源兵衛の刀が短いから、おれの刀を源兵衛に渡して、直ちに四人が大勢の中へ飛び込んだら、先の奴は、ばらばらと少しあとへ引っこんだはずみに、逃げ出して、ようよう浅草の雷門で三人一しょになり、吉原へ行ったが源兵衛が気遣《きづか》いだから、引戻して番場へ行って、飯を食おうと思って行ったら、源兵衛は、うちへ先へ帰って、玄関で酒を飲んでいたため三人は安心した。
それから源兵衛と、またまた一緒に八幡の前へ行って見たらば、たこ町の自身番へ大勢人が立っているから、そこへ行って聞いたら、八幡で大喧嘩があって、小揚《こあげ》の者をぶったが始まりで、小あげの者が二三十人、蔵前の仕事師が三十人で、相手を捕えんとして騒いだが、とうとう一人も押えずに逃がした、その上に、こちらは十八人ばかり手負いが出来た、今、外科が傷を縫っているというから、四人ながらうちへ帰って、おれは亀沢町へ帰ったが、あんなヒドいことはなかったよ。

刀は侍の大切のものだから、よく気をつけるものだが、刀は関の兼平《かねひら》だが、源兵衛へ貸した時、鍔元《つばもと》より三寸上って折れた、それから刀の目ききを稽古した。
この年、兄きと信州へ行ったが、十一月末には江戸へ帰った。源兵衛を師匠にして、喧嘩のけいこを毎日毎日したが、しまいには上手になった。
暮の十七日、浅草市へ例の連れで行ったが、その時、忠次郎が肩を斬られたが、衣類を厚く着た故、身へは少しも創《きず》がつかなかったが、着物は襦袢《じゅばん》まで切れた、その晩は知らずに寝たが、翌朝女が着物を炬燵《こたつ》へかけるとて見つけて、忠次郎の親父へそう言った故、おれも呼びによこしたから、番場へ行ったら忠之丞が、三人並べて、いろいろ意見を言ってくれた、以来は喧嘩をしまいという書附を取られた。この忠之丞という人は、至っていい人で、親類が、聖人のようだと皆々こわがった仁だ。

翌年正月、番場へ遊びに行ったら、新太郎が忠次郎と庭で剣術を遣《つか》っていたが、おれにも遣えと言う故、忠次郎とやったが、ひどく出合頭に胴を切られた、その時は気が遠くなった。それより二三度やったが、一本もぶつことができぬから口惜《くや》しかった。それから忠次郎に聞いて、団野へ弟子入りに行った。先の師匠からやかましく言ったが、かまわず置いた。
それから精を出して、早く上手になろうと思ってほかのことはかまわず稽古をしたが、翌年より伝受も二つもらった。それから、あんまり叩かれぬようになってからは、同流の稽古場へ毎日行ったが、大勢がよって来て、小吉、小吉と言うようになった。
他流へむやみと遣いに行ったら、その時分はまた剣術が今のようにはやらぬから、師匠が他流試合をやかましく言った。他流は勝負をめったにはしないから、みな下手が多くあった故、おのれが十八の歳、浅草の馬道、生政左衛門という一刀流の師匠がいたが、或る時、新太郎と忠次郎とおれと三人で行って、試合を言い入れたが、早速に承知した故、稽古場へ行って、その弟子とおれとやったが、初めてのこと故、一生懸命になってやったが、向うが下手でおれが勝った。それからだんだんやって、師匠と忠次郎に、政左衛門が体当りをされて、後ろの戸へ突き当てられて、雨戸が外れて仰のけに倒れたが、起きるところを続けて腹を打たれた。この日はそれきりで仕舞ったが、はじめに師匠が高慢をぬかしたが憎いから、帰りにはおれが玄関の名前の札を抜打ちにして持って帰った。それから方々へ行きあばれた。馬喰町の山口宗馬がところへ、神尾、深津、高浜、おれ四人で行って試合を言いこんだら、上へ通して、宗馬が高慢をぬかした故、試合をしようと言ったら、今晩は御免下され、重ねて来いと言った故、帰りがけに入口ののれん[#「のれん」に傍点]を高浜が刀で切裂いて、室へ抛《ほう》りこんで帰った。それから同流の下谷あたり、浅草本所ともに他流試合をするものは、みんなおれがさしずを受けたから、二尺九寸の刀をさして先生づらをしていたが、だんだんと井上伝兵衛先生が、その頃は門人多く、重立った奴等、皆おれが配下同然になり、藤川鴨八郎門人赤石郡司兵衛が弟子団野は言うに及ばず切従い、諸方へ他流に行ったが、運よく皆よかった。他流は中興まずおれがはじめだ。

十八の歳、また信州へ行った。

それからけん見[#「けん見」に傍点]に諸所へ行った。そのうち、江戸でおふくろが死んだと知らせて来たから、御用を仕舞って、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代《ごぶさかやき》の野郎が、馬方の蔭にはいって下にいたが、兄貴が見つけておれに捕れと言うから、この脇から十手を抜いて駈け出したら、その野郎は一散に浅間の方へ逃げおったから、とうとう追いかけて近寄ったら、二尺九寸の一本脇差を反り返して、
『お役人様、お見のがし下されませ』
と言ったから、
『うぬ、なに見のがすものだ』
とそばへ行くと、その刀を抜きおったが、引廻しを着ていたが、そのすそへ小尻[#「小尻」に傍点]がひっかかりて一尺ばかり抜きおったが、おれが直ぐに飛び込んで、柄を持ってちゅうがえりをしたら、野郎も一緒にころんで、おれの上になったが、後ろから平賀村の喜藤次という取締が来て、野郎の頭をもってひっくり返した故、おれも起き上りて十手にてつつき散らした、それから縄を打って、追分の旅宿へ引いて来た。上田|小諸《こもろ》より追々代官郡奉行が出て来て、野郎を貰いに来た。こいつは小諸の牢に二百日ばかりいたが、或る晩牢抜けをして、追分宿へ来て、女郎屋へ金をねだり、一両取って帰る道だと言った。音吉とて子分が百人もおるばくち[#「ばくち」に傍点]打だと役人が話した。それから大名へ渡すと首がないから、中の条の陣へやった。その後、そいつの刀を兄がくれたが、池田鬼神丸国重という刀だっけ、二尺九寸五分あった、おれが差料にした。
それから、碓氷峠《うすいとうげ》で小諸の家老の若い者らが休息所へ来て無礼をしたから、塩沢円蔵という手代とおれと、その野郎をとらえて、向うの家老の駕籠《かご》へぶつけてやった。
上州の安中でも、所の剣術遣いだと言ったが、常蔵という中間《ちゅうげん》の足を、白鞘《しらざや》を抜いてふいにきりかかったから、その時も、おれと二人で打ちのめして縛ってやった。宿役人に引渡して聞いたら酒乱だと言った。

十一月初めに江戸へ帰った。それからまたまた他流へ歩きまわったが、本所の割下水《わりげすい》に近藤弥之助という剣術の師匠がいたが、それが内弟子に小林隼太という奴があったが、大のあばれ者で本所ではみんながこわがった。或る時、小林が知恵を借って、津軽の家中に小野兼吉というあばれ者がおれのところへ他流を言い込んだ。
その時はうちにいた故、呼び入れて兼吉に逢ったが、中西忠兵衛が弟子で、そのはなしをしていると、兼めが大そうなことばかりぬかし、手前の刀を見せて、長いのを高慢に言いおるから、聞いていたら、十万石のうちにてこのくらいの刀をさすものがない、私ばかりだと言うから
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