寝所にしていたところだが、どこへか行きおった故に、おらが毎晩寝るところだ、三四日|稼《かせ》ぎに出た故、手前に取られて困ると言う故、病気の由を言ったら、そんなら三人にて寝ようとぬかして、六七日一緒にいたが、食い物には困り、どうしようと二人へ言ったら、伊勢にては、火の物は大神宮様が外へ出すを嫌いだからくれぬ故、在郷へ行ってみろと言うから、杖にすがって、そこより十七八町わきの村方へはいったら、番太郎が六尺棒を持って出て、なぜ村へ来た、そのために入口に札が立ててある、このべらぼうめがとぬかして、棒でブチおったが、病気ゆえに、気が遠くなって倒れた、そうすると、足にて村の外へ飛ばしおった故、腹這《はらば》うようにして漸く橋の下へ帰って来たら、二人がどうしたと言うから、そのしだいを言ったら、手前は米はあるかと言うから、麦と、米と、三四合もらいだめを出して見せたら、そんならおれが粥子《かゆこ》を煮てやろうと言って、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を掘って、徳利へ麦と米と入れて、水を入れ、木の枝を燃して、粥を拵《こしら》えてくれたから、少し食ったあとは礼に二人に振舞った。それよりおれも古徳利を見つけ、毎日毎日、もらった米、麦、引割をその徳利にて煮て食ったから、困らないようになったが、それまではまことに食物には困った。だんだん気分がよくなったから、そろそろとそこを出かけて、府中まで行ったが、とかく銭がなくって困るから、七月ちょうど盆だから、毎夜毎夜、町を貰って歩いたが、伝馬町というところの米屋で、ちいさい小皿に引割を入れて施行《せぎょう》に庭へ並べて置くから、一つ取ったが、一つのさしに銭が一文あるから、そっとまた一つ取った、そうすると米を搗《つ》いていた男が見つけおって、腹を立て、二度取りをしおるとて握《にぎ》り拳《こぶし》でおれをしたたかぶちおったが、病後ゆえ、道ばたに倒れた。ようよう気がついた故、観音堂へ行って寝たが、その時はようやく二本杖で歩く時ゆえか、翌日は一日腰が痛くって、ドコへも出なんだ。それから或る日の晩方、飯が食いたいから二丁町へはいったが、麦や米ばかりくれて、飯をくれぬから、だんだん貰って行ったら、曲り角の女郎屋で客が騒いでいたが、おれに言うには、手前はこぞうのくせに、なぜそんなに二本杖で歩く、悪くわずらったかと言う、左様でござりますと言ったら、そうであろう、よく死ななかった、どれ飯をやろうとて、飯や、肴《さかな》や、いろいろのさい[#「さい」に傍点]を竹の皮に包ませ、銭を三百文つかんでくれた、おれは地獄で地蔵に逢ったようだと思って、土へ手をついて礼を言ったら、その客が手前は江戸のようだが、ほんとの乞食ではあるまい、どこか侍の子だろうとて、女郎にいろいろ話しおるが、緋縮緬《ひぢりめん》の袖のついた白地の浴衣《ゆかた》と、紺縮緬のふんどしをくれたが、嬉しかった。その晩は木賃宿へ泊って、畳の上へ寝るがいいと言った故、厚く礼を言って、それから伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると泊ったが、しまいには宿銭から食物代がたまって、払いに仕方がないから、単物《ひとえもの》を六百文の質に入れてもらって、早々そこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へまた志して行くに、石部《いしべ》まで行って或る日、宿の外れ茶屋のわきに寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹《ふたさお》来たが、その茶屋へ休んでいると、長持の親方が二人来て、同じく床几《しょうぎ》に腰をかけて酒を飲んでいたが、おれに言うには、手前はわずらったな、ドコへ行くと言うから、上方へ行くと言ったら、当てがあるのかと言うから、あてはないが行くと言ったら、それはよせ、上方はいかぬところだ、それより江戸へ帰るがいい、おれがついて行ってやるから、まず髪月代《かみさかやき》をしろとて、向うの髪結床へ連れて行ってさせて、そのなりでは外聞が悪いとて、きれいな浴衣をくれて、三尺手拭をくれた、しかして杖をついては埒《らち》が明かぬから、駕籠《かご》へ乗れとて、駕籠をやといて載せて、毎日毎日よく世話をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方がばくちの喧嘩で大騒ぎが出来て、おれを連れた親方は国へ帰るとて、くれた単物を取り返して、木綿の古襦袢をくれて直ぐに出て行きおったから、いま一人の親方が言うには、手前はこれまで連れて来てもらったを徳にして、あしたは一人で江戸へ行くがいいとて、銭五十文ばかりくれおったが、仕方がないから、また乞食をして、ぶらぶら来て、ところは忘れたが、あるがけのところにその晩は寝たが、どういうわけか崖より下へ落ち、岩の角にきんたまを打ったが、気絶をしていたと見えて、翌日ようよう人らしくなったが、きんたまが痛んで歩くことがならなんだ。二三日過ぎると少しずつよかったから、そろそろ歩きながら貰って行ったが、箱根へかかって、きんたまが腫《は》れて膿《うみ》がしたたか出たが、がまんをして、その翌日、二子山まで歩いたが、日が暮れるからそこにその晩は寝ていたが、夜の明け方、飛脚が三度通りて、おれに言うには、手前ゆうべはここに寝たかと言う故、あい、と言ったら、強い奴だ、よく狼に食われなんだ、こんどから山へは寝るなと言って銭を百文ばかりくれた。三枚橋へ来て茶屋のわきに寝ていたら、人足が五六人来て、こぞうなぜ寝ていると言いおるから、腹が減ってならぬから寝ていると言ったら、飯を一ぱいくれた。その中に四十ぐらいの男が言うには、おれのところへ来て奉公しやれ、飯はたくさん食われるからと言う故に、一緒に行ったら小田原の城下の外の横町にて、漁師町にて喜平次という男だ。おれを内へ入れて、女房や娘に、奉公につれて来たから、可愛がってやれと言った、女房娘もやれこれと言って、飯を食えと言うから、飯を食ったらきらず[#「きらず」に傍点]飯だ、魚はたくさんあってくれた、あすよりは海へ行って船を漕《こ》げと言うから、江戸にて海へは度々《たびたび》行った故、はいはいと言っていたら、こぞうの名は何というかと聞くから、亀というと言ったら、お鉢の小さいのを渡して、これに弁当をつめて朝七つより毎日毎日行け、手前は江戸っ児だから、二三日は海にて飯は食えまいから持って行くなと喜平が言いおる、おれは江戸にて毎日海で船に乗ったから怖《こわ》くないと言ったら、いやいや江戸の海とは違うと言うから、それでもきかずに弁当を持って行った。それから同船のやつが、うちへおれを連れて行って頼んだから、翌朝より早く来いと言う、それから毎朝毎朝、船へ行ったが、みんなが言うには、亀が歩くなりはおかしいと言いおる、そのはずだ、きんたまの腫れが引かずにいて水がぽたぽた垂れて困ったが、とうとう隠し通してしまったが困ったよ。毎日朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引き上げ、網を干して、少しずつ魚を貰って小田原の町へ売りに行った。それからうちへ帰って、きらず[#「きらず」に傍点]を買って来て四人の飯を焚《た》くし、近所の使をして、二文三文ずつ貰った。うちの娘は三十ばかり気のいいやつで、時々|水瓜《すいか》などを買ってくれた。女房はやかましくてよくこき使った。喜平は人足ゆえ、うちには夜ばかりいたが、これはやさしいおやじで、時に菓子など持って来てくれた。十四五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで考えてみたが、なんしろおれも武士だが、うちを出て四カ月になる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第《りょうけんしだい》になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり、もも引と、きもののつぎだらけなのを一つ貰って、閏《うるう》八月の二日、銭三百文、戸棚にあるを盗んで、飯をたくさん弁当へつめて、浜へ行くと言って夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森にて、犬が出て取巻いて、一生懸命大声を揚げてわめくと、番人乞食が犬を追い散らしてくれた故、高輪《たかなわ》の漁師町のうらにはいりて、海苔取船《のりとりぶね》があったから、それをひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥《くたび》れたせいか、翌日は、日が上っても寝ていたから、所の者が三四人出て見つけて叱りおった。わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山《あたごやま》でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の木の茂みへ寝た。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日|回向院《えこういん》の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまいには銭がなくなったから、毎晩|度々《たびたび》、垣根をむぐり出て、貰っていたが、夜はくれ手が少ないから、ひもじい思いをした。回向院奥の墓所に乞食の頭《かしら》があるが、おれに仲間に入れとぬかしおったから、そやつのところへ行って、したたか飯を食った」
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 野郎、土性骨まで乞食になりおったな、しかしまあ、ここまで乞食になりきれりゃあ、人間もねうちものだと、神尾が感心しながら、野郎どんな面《かお》をして養家の閾《しきい》をまたぐのかと、調べてみました――
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「そして、裏から亀沢町へ来て見たが、なんだか閾が高いようだから(でも閾の高低がわかるだけの感は残っていたのが不思議)引返して二ツ目の向うの材木問屋の蔭へ行って寝た。三日目に朝早く起きてうちへ帰ったが、うちじゅう、小吉が帰ったとて大騒ぎをし、おれが部屋へ入って寝たが、十日ばかりは寝通しをした。おれがいないうちは加持祈祷いろいろとして、いとこの恵山というびくは、上方まで尋ねて上ったとて話した。それから医者が来て、腰下に何か仔細があろうとていろいろ言ったが、その時はまだ、きんたまが崩れていたが、強情にないと言って帰してしまった。三月ばかりたつと、しつ[#「しつ」に傍点]が出来てだんだん大相《たいそう》になった、起居《たちい》もできぬようになって、二年ばかりは外へも行かずうちずまいをしたよ。それから親父が、おれの頭《かしら》、石川右近将監に、帰りし由を言って、いかにも恐れ入ること故、小吉は隠居させ、ほかに養子いたすべきと言ったら、石川殿が、今日帰らぬと月切れゆえ家は断絶するが、まずまず帰って目出たい、それには及ばぬ、年とって改心すればお役にも立つべし、よくよく手当して遣《つか》わすべしと言われた、それから一同安心したと皆が咄《はな》した」
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         五十八

 神尾主膳は、読み去り読み来《きた》る間にも、さげすんでみたり、存外やると思ってみたり、ばかばかしいと思ってみたり、おれは何が何でもここまでは落ちられないと歎息してみたりする、その間にも、四十俵高の小身者《しょうしんもの》と、自分の生れと比較して、優越感にひたらざるを得ないのも、この人の性根であります。
「根が小身者だからな」
とさげすみながらも、甚《はなは》だ共鳴させられる節が多くて、これはおれを書いているのではないか、自分の姿を鏡で見せられてでもいるような心持に、うっかりと捉われてしまうのは、つまり、高に大小こそあれ、やっぱり生え抜きの江戸人である。勝の家も小身ながら開府以来の江戸人である、男谷《おたに》の方は越後から来た検校出《けんぎょうで》ということだが、それも何代か江戸に居ついて、江戸人になりきっている。江戸人に共通したところのものが、この一巻のうちに流れている。しかるが故に、神尾主膳が、このまずい文章と、格法を無視した記録に、足許をさらわれそうにしている。読み出した以上は読み了《おわ》らなければならない。東海道をうろついて、乞食をして歩いただけで納まったのでは、勝の父らしくない。この性根が一生涯附いて廻らなければ本物とは言えないと、神尾は変なところへ同情を置いて、次へと読み進みました。
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「十六の年には、ようやくしつ[#「しつ」に傍点]もよくなったから出勤するがいいと言うから、
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