ない、進退きわまったのだが、そこは伊東の頭がよい、誰にも文句の言えない名分によって辞職をして、新たに別の方面へ分立することができたのだ」
「ははあ、伊東という男、そんなに頭がよかったかな、そうして、その分立を近藤が素直に許したのも不思議じゃないか」
「しかし、そこが伊東の頭のよいところで、近藤といえどもこれには文句のつけられない名分を選んだのだ」
「どういう名分なんだ」
 これらの問答は主として、山崎譲と田中新兵衛との間に取りかわされている。机竜之助はただ黙って聞き役である。だが、語ると黙するとにかかわらず、三人の足は歩調を揃《そろ》えて絶えず京洛の方へ向って進んでいるのだが、行けども行けども捗《はかど》らないこと夥《おびただ》しい。やっぱり荒涼たる荒野原で、行けば行くほど「柳緑花紅」がついて廻る。

         四十四

 山崎譲は、相変らず能弁に新撰組後日物語を語りながら歩いている。
「もともと伊東は頭もよし、才もあるから、天下の形勢を近藤よりは一層広く見ている、近藤のように幕府一点張りの猪武者《いのししむしゃ》ではない、これは勤王攘夷で行かなければ事は為《な》せないと見たものだろう、その意見の相違から分立の勢いとなったが、今いう通り、新撰組そのものの組織が分立を許さない、そこで伊東が大義名分に立脚し、近藤といえども文句のつけようのない名分を発見して、それで分離の実を挙げたというのは、彼は策をめぐらして、泉涌寺《せんようじ》の皇家御陵墓の衛士を拝命することになったのだ。他のなんらの目的、理由、事情を以てするとも許されない新撰組の脱退も、皇室の御用勤務ということになると歯が立たない、さしもの近藤もその点に屈服して、ついに伊東甲子太郎を首領とする一派の新撰組脱退を許したのだ。彼等は喜んで一味と共に新撰組を去り、別に東山の高台寺へ屯所《とんしょ》を設けたのだ。そこで彼等は新撰組隊士でなく、御陵衛士という新しい肩書がついた、そうして、屯所が右の高台寺月心院に置かれたところから、人呼んでこれを高台寺組という、まず、この面《かお》ぶれを見給え」
と言って、山崎譲は、またふところから別の紙切れを取り出して示すと、二人は前と同様にして見ると、次のような文字がありありとうつる。
[#ここから2字下げ]
御陵衛士 伊東甲子太郎
同    篠原泰之進
同    新井忠雄
同    加納※[#「周+鳥」、第3水準1−94−62]雄
同    橋本皆助
同    毛内監物
同    服部武雄
同    中西昇
同    鈴木三樹三郎
同    藤堂平助
同    内海二郎
同    阿部十郎
同    富山弥兵衛
同    清原清
岡    佐原太郎
同    斎藤一
[#ここで字下げ終わり]
 右の人名表を二人は、一通り眼を通してしまうと、紙切れを山崎の手に戻す。それを指頭でひねりながら、山崎が語りつづける――
「事の順序として、伊東甲子太郎という男はどういう男であったか、それを説明して置こう。伊東はもと鈴木大蔵といって常陸《ひたち》の本堂の家来なのだ、水戸の金子健四郎に剣を学んでいる、芹沢と同様、無念流だ、江戸へ出て深川の北辰一刀流、伊東精一に就いて学んでいるうちに、師匠に見込まれて伊東の後をついだのだが、腕もあるし、頭もよい、学問も出来る、なかなか今の時勢に雌伏して町道場を守っていられる人間でない、髀肉《ひにく》の歎に堪えられずにいるところへ、近藤が京都から隊士を募集に来た。近藤は、兵は東国に限るという見地から、わざわざ関東まで出向いて募集に来たのだ。その時に伊東が一味同志を率いて、これに参加することになったのだ。その一味同志というのが、この表にもある名前の大部分で、鈴木三樹三郎は彼の弟である、中西昇と、内海二郎はその代稽古をしていた、これに服部三郎兵衛、加納直之助、佐野七五三之助、篠原泰之進ら八人が打連れて、近藤ともろともに京都へ上って行った、それがそもそも縁のはじまり。その伊東以下がここに至って、前に言う通りの事情と名分とを以て、首尾よく新撰組と分離を遂げてしまった上に、新たに『御陵衛士』の名目を得て、立派に一隊を組織して盛んに同志を募りはじめた」
「それを黙って見ている近藤でもあるまい」
「その通り――伊東が芹沢と同じような運命に送られるか、或いは新勢力が旧組を圧倒して立つかの切羽《せっぱ》になった。そこへ持って来て、伊東が分離した時に、同時に分離して御陵衛士に入るべくして入らなかった一団がまだ新撰組のうちに残っている、その面《かお》ぶれを挙げてみると、佐野七五三之助、茨木司、岡田克己、中村三弥、湯川十郎、木幡勝之助、松本俊蔵、高野長右衛門、松本主税といったところで、これがどうかして脱退したいと、ひそかにその機を狙《ねら》っていたところへ、右の待遇問題が起って来た。近藤らは甘んじて幕府の金箔附きの御用党となる建前である、近藤としては、一土民から直参になり、あわよくば国主大名にも出世し兼ねまじき路が開かれたのだろうが、最初の同志浪人の面目は台なしだと、不平分子がこの機会にいきり出したのも無理のないところがある」
「そうだろう、浪人として集まったものの中には、浪人なることを本懐として、役人たることはいさぎよしとしないものが多々あったはずだ」
「その通り、我等は浪人として勤王攘夷を実行せんために、新撰隊に加盟したのだ、いまさら徳川の禄《ろく》を食《は》んで、その爪牙《そうが》となるわけにはいかぬ、新撰隊そのものが、そういうふうに変化した以上は、我々の隊に留まるべき大義名分は消滅したのだから、脱退して新たなる出処につくことが士の本分である、至急、我々の脱退を認めろ、というのが、これらの者の主張であって、これを右の直参待遇問題を機会にして、彼等が正面から近藤にぶっつかって行ったのだ」
「それを素直に聞くようなら、近藤も近藤でないし、新撰組も事実上の消滅だ。してその成行きはどうなった」
「右の十名のものは、右の意見を発表すると共に、袖をつらねて高台寺の伊東のところへ走ったが、それをそのまま受入れたのでは、高台寺組と新撰組が正面衝突になる、いや、高台寺組が新撰組へ公然宣戦布告ということになるから、さすがに伊東もそれは受入れない――投じて来た十名の者を諭《さと》して、諸君がそういう意志なら、僕のところへかけ込んで来るよりは、会津侯へ行ったらよかろう、何と言っても新撰組は会津が監督していることになるのだ、会津侯に向って、大義名分の理由により進退を決めるということを公明正大に申し述べて、立派に分離の手続を取るのがよろしい――こういうように伊東から諭されたので、それに従って会津侯へ請願書を出したが、会津でも扱いきれない。本来、新撰組は会津の監督とはいうものの、会津といえども、譜代といえども、新撰組に対しては監督というも名ばかりで、一目も二目も置いている、今の新撰組は厳然たる一大諸侯以上の存在である。そこで右の請願書を受取った会津の公用人は困ってしまって、これは当方の独断では取計らい兼ねるによって、一応近藤の方へも照会して、追って返事をするという挨拶であった――」
「そうだろうとも。会津といえども、宗家といえども、新撰組は扱いきれない、譜代なら譜代のように、大藩といえども処分のしようはあるけれども、新撰組は本来、骨からの浪人だ」
「そこで、会津から改めて近藤の方に旨を通ずると、近藤の返事がこうだ、さようなお取上げは一切御無用に願いたい、これと申すも、伊東あたりが背後にいて糸を引いてのことと思うが、こういうことが続発した日には、新撰組の致命傷だ、何はともあれ、一同の者はひとまず隊へ立ちかえるようによくおさとしが願いたいと。そこで会津からこの旨を脱退組に申し伝えると、彼等はまたそういうことをいまさら承知するはずがない――では明日改めてということになって、十人が打揃《うちそろ》ってまた会津屋敷まで出かけることになって、その前に伊東に会って打合せをすると、伊東が言うことには、まあ今日は会津屋敷へ行くのは止せ、相手が一筋縄ではいかない奴だから、どんな計略をしてないともわからぬ、それにひっかかりに行くのは危険千万だ、と言って留めてみたが、十人組はきかない、なあに、向うは会津屋敷だ、そう無茶なこともすまい、と十人のうち茨木司を先に立てて、佐野、富田、中村の都合四人が代表ということで会津屋敷へ歩いて行った。ところが仲介役、会津の公用人がなかなか出て来ない、主用で外出と言って容易に戻って来ないで、とうとう朝から夕方まで会津屋敷で待たされた。その時の代表の今の四人が奥室に進み、あとの六人は別室に控えていたが、いよいよ夕方まで待たされて、退屈を極めている途端を、不意にその四人の代表の後ろの襖からの電光の如く槍が突き出されて、四人とも芋刺し。思い設けぬ狼藉《ろうぜき》に、四人のものは深傷《ふかで》を負いながらも、刀を抜いてかかってみたけれどもすでに遅かった、僅かに相手を傷つけたのみで、四人もろともに田楽刺しになってその場に相果てたが、残る六人の者は主謀にあらず、罪状軽しとあって、新撰組へ連れ戻して追放の刑に処した――これがその近藤の取った復讐手段の序幕……」
 山崎譲が能弁に任せて、滔々《とうとう》として、ここまで語り去り語り来《きた》った時分にも、三人の足並みは更に変らないで、さっさと京洛をめざして進んでいたのだが、いつか知らぬうちに、茫々たる薄野原は早くも尽きてしまって、いつのまにか両側は櫛比《しっぴ》した町家になっている。そのまた町家が、いずれも熟睡時間だから、戸を閉しきって人っ子ひとり通るのではないから、みようによっては、薄野原の無人境よりはいっそう荒涼たるものに見える。清少納言は、火のなき火鉢というものをすさまじきものの一つに数えたが、もともと人家のないところに人家がないのは荒涼とはいえ、そこにまた自然の趣もあるというものだが、人家があって人がいない光景は、かえってすさまじいものがあると見られる。それに、これも今となって気がついたものだが、いつのまにか、闇の空は破れて皎々《きょうきょう》たる月がかがやいていようというものである。そこで、死の沈黙のような町並がいっそう荒涼たるものに見える。そのくせ、人家は行けども行けども無数に櫛比していることであり、その数の夥《おびただ》しいこと無数無限といってもよい。その中を三人が、例の歩調を揃《そろ》えて、さっさと歩み入るのでありましたが、前途に蒲団《ふとん》を着て寝ているような山があって、その山の真中に大文字の火が燃えている。どうしたものか、その辺で、山崎の能弁がぱったりと止まって、三人は無言で、その月下無人の市街路を、さっさと進んで行くのであります。
 路は早くも京洛の町並へ入っているのだ。当時の京都の夜はそれがあたりまえである。どんな勇者でも、京都の町を、深夜と言わず、宵《よい》のうちでさえも、独《ひと》り歩きなどをするものはないのだから、足は王城の下に入ったとはいえ、町は死の沈黙が当然なのであるにはあるが、それにしても、また一層のすさまじさで、歩調を揃えて行く三人の足どりが、どうも地についていない、いずれも宙に乗って走っているかと思われるくらいです。そのくらいだから、雲の飛ぶように、風の行くように、迅《はや》いことは迅いのだが、このまた町並というものも、どこまで行って、ドコで終るか知れないほど続けば続くものです。
 彼等三人は、さっさっと風を切って進みましたが、しばらく行って、山崎譲がようやく沈黙を破って、
「さて――田楽ざしの四人の者の死骸が……」
 その時に、道ばたの町並の町家の一角から人の声があって、きわめて低い声を発して、
「しばらく、しばらく、お控え下さい」
 六尺棒を持って、両刀をたばさんだ足軽|体《てい》のが一人現われて、
「しっ! しばらく、お控え下さい、殺陣があります」
 叱するが如く、警するが如く、低く、そうして力ある声。
 ほかに通行の人はないのだから、その低声の警告は、まさしく、この
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