る物のたずね方なので、竜之助、怒気を含んで見返ろうとしたが、この背後が磐石《ばんじゃく》のように重い。
「島原へいらっしゃいよ」
「島原へ――」
一方の白い軟らかい手が、自分の左の肩にかかっていたかと思うと、今度は、右の方の眼の前へ一つの白い軟らかい手が現われました。そうして、しかもその軟らかい手が、五体にくっついていないのです。手首から下はありやなしや、その指先だけが、
「島原へ――」
と言って、一方の空を指している。この指したところを見ると、ぼうっと、一隅だけ酸漿《ほおずき》のように赤い。
「あれが島原か」
「もう一ぺん、あなたを島原で遊ばせて上げたい」
「…………」
「皆さん、相変らずお盛んでございますよ、芹沢《せりざわ》さんは殺されましたが」
「近藤勇は無事か……」
「無事どころか、飛ぶ鳥落す勢いだよ、わは、は、は、は、は」
それは軟らかく白い手首の女の声ではない、豪傑的なすさまじい高笑いでありました。
「誰だ」
と振り切った時は、竜之助の身が軽くなりました。島原へ――指したその手は細く柔らかい手でしたが、高笑いは、決してその手に相応する声ではありませんでした。このすさまじい高笑いが起ると共に、左の肩に置かれた細いしなやかな手も、右で指さされた島原の白い手首も、すっと、霞を引いたように消え失せてしまって、竜之助が振返った背後には、雲を衝《つ》く大男が一人、大手を振ってのっしのっしと歩み来るのを見受けます。
「は、は、は」
先方は、すさまじい豪傑笑いを以て、竜之助の背後に迫り来《きた》ったのです。その時に、発止と思い当った竜之助は、二三歩すさって身構えざるを得なかったものです。
「喫驚《びっくり》したかな、田中新兵衛だよ、示現流《じげんりゅう》の、主水正正清《もんどのしょうまさきよ》の田中新兵衛だ」
「うむ――また出たか」
「今度は果し合いの申込みなんて、そんな野暮《やぼ》な真似《まね》はせぬから安心し給え、おいも、久しぶりで京都へ入るのだ、いい道連れを欲しいと思っていたところへ君が来たので嬉しいよ、昔のことは忘れて、旅は道連れの情けを以て、つき合ってくれ給え」
いかにも、そういう声は田中新兵衛である。その昔、この道を通った時に、不意に背後から呼び留めて、白昼、真剣の果し合いを申込んだあの白徒《しれもの》である。だが、今宵は、あの時と打って変ったあけっぱなしの、隔てのないものの言いぶりで、豪傑肌こそ昔に変らないが、殺気などというものは微塵《みじん》もない、真に己《おの》れも淋しいことあって、友を呼ぶ魂のように聞えるから、竜之助も極めて安心をしつつ、その追いつくのを待っていると、ほどなく近づいた右の豪傑は、竜之助を見て莞爾《かんじ》として笑ったかと思うと、竜之助の腕をとって、親しみの態度を現わしました。竜之助も手をさしのべてさわってみたが、その手は荒いけれども、そのさわりは極めてつめたい。
「いやに冷たい手をしているな」
「は、は、は」
「どこへ行っての帰りだ、そうしてこれからどこへ行こうというのだ」
「美濃の関ヶ原から来たんだが、これからまた京都へ行くのだ、京都はどこという当てもないが、せっかく君と同行のことだ、君の行くところへ僕も行こうではないか」
田中新兵衛は極めて親しみを以て、こう言いました。思えば自分も一人旅、逢坂山の関の清水を立ち出でて、足はこうして京洛の地に向いているけれども、さて、今度の都入り、誰を当てに、ドコへ落ちつこうという目的があるではないのだ。田中新兵衛から、こう持ちかけられてみると、竜之助はいまさら自分の行手を思案する気にもなる。
「拙者は島原へ行こうと思っているのだ」
「島原――結構」
と田中新兵衛が言下に応じました。竜之助が島原と言ったのは出まかせである。最初からそこへ目的を置いたわけではなし、そこになんらの知己ある人がいるわけではないが、今の先、島原へと誘引した白い手首があった、そのことが眼先にちらついていたものだから、つい口頭に現われたものだが、この際は自分ながらよく言ったと思った。
今の竜之助としては、会津へ行くとも言えまい。壬生《みぶ》へ参るとも言えまい。京洛の天地に彼が名乗りかけて、草鞋を脱ごうという心当りは一つもない。ただ、島原だけは万人の家である。あすこには、いかなる人をも許して拒まない女性がいる。
そこで二人は、無言に轡《くつわ》を並べて、薄野原《すすきのはら》を歩み出しました。行けども行けども薄野原で、京伏見への追分路が、こんなに野原続きのはずはないのに、ほとんど無限の野原つづき。しかもその前面には、たえず「柳緑花紅」の石ぶみが並び進んで離れない。ただ安心なのは、この不意打ちの旅客に、今宵はドコまで行っても殺気というものが湧いて来ないことである。昔のように、警戒も、残心も、さらに必要がなくて、ややもすれば同行同向のなつかしみがにじみ出でて来る。竜之助は全く打ちとけた心になって、かえってこちらから隔てなく話しかけるような気分になりました。
「その後、拙者は身世《しんせい》の数奇《さっき》というやつで、有為転変《ういてんぺん》の行路を極めたが、天下の大勢というものにはトンと暗い、京都はどうなっている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩や、長州の近頃の雲行きはどうなっている、知っているなら話してくれないか」
「うむ、僕もよくは知らんが、君よりは一日の長があるか知れん、知っているだけ物語って聞かそう。まず、君にも何かと縁故の深い壬生《みぶ》の新撰組だな」
「うむ――どうだい、あれは」
「近藤勇がこれを率いて、土方《ひじかた》がそれを助けている、今の新撰組はことごとく近藤によって統制されている、新撰組の近藤ではない、近藤の新撰組だ、いや新撰組の近藤というよりも京都の近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町だ、近藤の威力は飛ぶ鳥を落し、泣く児もだまる」
「近藤勇――それほどの勢力となりおったかな」
「市中の威力は町奉行以上、守護職以上、脱走の大藩浪人共も、かれの前には猫のようで、彼を怖るること虎の如し、全くエライ勢いだよ」
「彼もたいした英雄でもなかろうが、時の勢いで、威がついたのだな」
「たいした英雄ではないかも知らんが、たいした勇敢だ、是非名分はトニカクとして、あれだけの勇気ある奴はない、あれだけの決断のある奴はない、勢いの帰するところ、必ずしも偶然とのみは言えないのだ。そもそも彼が今日の威力を得たことも、必ずしも蛮勇と僥倖《ぎょうこう》とのみは言えない――ドコかに一片の至誠の人を打つものがあり、多少ともに人を御する頭梁《とうりょう》の器《うつわ》があればのことだ。彼の今日に至るまでには、血の歴史がある。血の歴史と言ったところで、人を斬って見るその血のことのみを言うのではない、自分の精神的にだ。精神的に、血涙を呑むの苦闘を嘗《な》め来《きた》った、それを言うのだ。近藤を蛮勇一辺の男とのみ見る人は、その胸臆をよく知らないものだよ、彼は珍しく純なところのある血性の男児で、憎むことを知る男だよ。彼にこの血性の有する限り、血の歴史はまだまだ続くよ」
斯様《かよう》に語り来った新兵衛の言葉には、幾分なりと近藤に対する同情がほの見える。いわゆる勤王方の中心勢力たる薩摩のうちに、かえって近藤を諒解する男がいるということを、竜之助も不思議なりとして、
「あれはあれだけの男だろう、あれの器量として、今の地位は過ぎたるものか、及ばざるものか、その辺は拙者は知らない、だが、あれもいい死にようはしないだろうが、死場所を与えてやりたいものだ」
何とつかず竜之助が、斯様に挨拶したのを、田中新兵衛はまた高笑して、
「は、は、は、その点は御同様、君も、僕も、いい死にようはできなかった」
できなかったがおかしい。できなかったでは過去になる。過去に解決を告げてしまった語法文法になる。文法や語格には注意を払わない竜之助は、
「そうなると、近藤に万一のことがあるとなった暁は、今後の新撰組は誰に率いられるのだ」
「そこだ――路傍の噂《うわさ》では、伊東甲子太郎《いとうきねたろう》が最も有望だということだが、くわしいことはよくわからんが」
ここまで語り合った時に、不意にまた路傍から声がかかって来た。
「その話なら、僕がくわしいよ」
二人は驚いて、その声のする方を見やると――
闇中《あんちゅう》からのそりと出て来た、旅すがたは平民的……いつかは奴茶屋《やっこぢゃや》の前まで来ておりました。その奴茶屋の縁台に腰打ちかけ休んでいた一人の発言でした。
「やあ、山崎君ではないか」
これはこれ、新撰組の一人、香取流の棒の名手、変装の上手、山崎譲でありました。
四十三
なるほど、山崎ならば、新撰組の近状を知ることに於て田中以上だろう。奴茶屋に休んでいた山崎は、闇中から不意にしゃしゃり出たと見ると、二人に押並んで歩調を合わせながら、
「では、僕が代って、その後の新撰組の状態と、今後の予想とをくわしく話して聞かせようではないか――」
と言って、懐中から何か一ひらの紙切れを取り出して二人に示し、
「まず、これを一覧し給え」
暗いところではあり、かつ、会話はしながらも、これは無性に進行している途中ではあり、そこで急に紙片をつきつけられたからとて、本来読めるはずのものではないが、そこは不思議にも、
「どれどれ」
と言って受取った二人の前へ、笠から透きとおって、その巻紙の文字がありありとわかるのであります。読んでみますと、それは次のような人名表でありました。
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見廻組組頭格 隊長 近藤勇
同 肝煎格 副長 土方歳三
見廻組 格 沖田総司
右 同断 永倉新八
同 原田左之助
見廻組 井上新太郎
同 山崎木一
同 緒形俊太郎
見廻組 並 茨木司
同 村上清
同 吉村貫一郎
同 安藤主計
同 大石鍬次郎
同 近藤周平
惣組残らず見廻御抱御雇入仰せつけられ候
卯六月
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これを二人が、すらすらと読んでしまって、田中が、
「なるほど、こうなってみると、新撰組は残らず幕府の方へ、お抱え、お雇入れ、仰せつけられ、ということになったのだな、金箔附きの御用党となったわけじゃな」
「そこだよ」
「よく、これで納まったな」
「納まらないのだ、これで近藤は御目見得格《おめみえかく》以上の役人となり、大久保なにがしという名をも下され、土方は内藤隼之助《ないとうはやとのすけ》と改名まで仰せつけられたというわけだが――納まるはずがない、本人たちは一応納まったが、納まらぬのは多年の同志の間柄だ」
「そうだろう、一議論あるべきところだ」
「本来、新撰組というのが、幕府の爪牙《そうが》となって働く放漫有志の鎮圧を専門としているが、もともとかれらは生え抜きの幕臣でもなんでもないから、その御すべからざるところに価値《ねうち》があったのだ、彼等は事情やみ難く幕府のために働くとは言い条、彼等の中には勤王攘夷の熱血漢もあれば、立身の梯子として組を利用しているものもある、天下の壬生浪人として大手を振っていたものが、公然幕府の御用壮士と極印《ごくいん》を捺《お》されることを本意なりとせざるものがある」
「それはそうありそうなことだ、で、右のように彼等が役附いたとなると、当然それに帰服せざるやからの出処進退というものが見ものだな」
「そこで、一部のものに不平が勃発し、その不平組の牛耳が、今いう伊東甲子太郎なのだ」
「また新撰組が二分したか」
「いや、すんなりと二分ができれば問題はないのだが、新撰組の組織というものが決して脱退を許さぬことになっている、脱退は即ち死なりと血誓がしてあるのだ、近藤に平らかならざるものも、隊としての進退が決した以上、それに不服が許されない、脱退も許され
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