こないなんだそうでございましてね、変なことになりました」
 取巻がつけ加えて物語ることには、
「二人ともに、そうして、まあ立派に心中を遂げたには遂げたのですが、あとで聞きますと、男の方はそれっきり、女だけが助かりましたのやそうでございます」
「おやおや、運が悪いねえ、心中の生残りは浮ばれない」
「それから後、男の方の菩提《ぼだい》は、この上の長安寺の方で葬って上げていてあるはずなんでございますが、女の方は、早速引取りの親類が大和の岡寺から参りまして、死にたい死にたいというのを、不寝《ねず》の看《み》とりで引取ってしまいましたが、今ではどうなっておりますか。ところだけは大津屋で聞いておきました、大和の岡寺の薬屋源太郎というのが、その女の方の伯父《おじ》さんに当るとやらで、当分そこへ引取られたはずなんですが、わたくしも、もしあちらへ出向く機会がありました節は、ひとつ外からのぞいて見てやりたいと思っているのでございます。いい娘でした、少し淋《さび》しみのある面立《おもだ》ちをしておりましてな。もう五年も前のことですから、今頃はすっかり手創《てきず》が癒《なお》って、しかるべきところへ縁づいて、子供の二人も出来ている時分なのでしょうが、大和の岡寺の薬屋源太郎という名前が妙に気になりましてな、今でも、あの娘さんが、宿の離れに隠れて、世を忍んででもいるような気がしてたまりませんから、一度大和へ行ったら見てやりたいと、よけいな心づかいをしているばっかりで、まだ、あちらへ参る折もございません」
 見たって仕方がないじゃないか、とお角さんが言うと、伊太夫が、何か野心があるのだろうとからかう。取巻も、それでいったんは口をつぐんでしまったが、これによって見ると、大和の国、岡寺の薬屋源太郎と言ったのはこの取巻の聞誤りで、実は同じ国、三輪の里、大明神の門前のことではなかろうか。
 そうして、その心中者の男の方の名を真三郎と言い、女をお豊とは呼ばなかったか。
 しばらくして、また取巻の口が開いて、右の心中話に決着を与える――
 あの時の若い男女は、心中の方式については全く無知識であったこと、入水《じゅすい》をするにしても、どういう方法を取るのが最も安全で、且つ見事であったか、それを知らなかった。かつまた、入水の空間にしてからが、ドノ辺が沈みよくて浮き難く、ドノ辺が遠浅で、浮き易《やす》くして沈み難いかをさえ、てんで地理の理解がなかったことを思いやられる。ただ水に入りさえすれば死ねるものと心得て入ってみたが、さてここが死にどころというのが見当らなかった。浜辺に近いところ、遠浅のあたりを、より広く遠く、二人は抱き合いながら水に浸ってさまよい歩いた形跡があること、そうして、やっと深いところへ、この辺ならば沈むに堪えたところ、死ねるに違いないと思われるところにたどりついてはじめて身を横にして、やっと水の来《きた》り沈めるに任せていたという形跡もあったから、とてもそれは、二人相抱いて、高いところから落ち、一気に生涯を片づけてしまったというあざやかな手際にはいかなかったこと、全く無経験無知識な身の投げ方をしている――心中にそうたびたび経験や知識があってはたまらないけれども、それにしても幼稚極まる身の投げ方をしていたことが、見る人をいじらしがらせた。そうして、心中の仕方に於ては、さほど無経験無知識であったにかかわらず、そのたしなみに至っては、打って変って行届き過ぎるほどに行届いていたというのは、つまり、お角さんが、たったいま癇《かん》にさわったとは全く反対の行き方で、二人の身体こそ、がっちりと水も洩らさず帯で結んでいたけれども、女も男も、いついかようになって人目にさらされようとも、強《し》いて剥奪するのでない限り、ちっとも醜態を現わさないように、裏から表までよそおいを凝らしていたということが、今でも賞《ほ》めものになっている。
 これを取巻が、この際、新発見でもしたもののように、そやし立てて、つまりあの心中は、遺書《かきおき》にも書き残してあった通り、女の一方が一つか二つか年上で、弟をいたわるように、心ならずも引かされて死んでやったと見るべきだから、万端の注意があの女の心一つで行届いていたということになって、女のたしなみの鑑《かがみ》でもあるかのように取巻が並べたので、
「いやに女の方にばかり肩を持ちたがるじゃないか」
と、またしても伊太夫から冷かされたが、それでも取巻は一向にめげず、
「全く、あの女子《おなご》はよい女子でしたねえ、こう、少し淋し味はありますが、それがかえって魅力でございまして……いまだに眼についてはなれません。実際、あれが生き返ったのですから、ただは置けない道理じゃございませんか、その当座はひとごとならず気が揉《も》めました」
 その当座だけではない、今もなお気が揉めているから、こんなことも口へ出るのだろう。そこでお角さんが、
「心中の片割者なんか、女ひでりの世じゃあるまいし」
 お角さんにけし飛ばされても取巻はひるまない。
「ところが、かえって一段と気が揉めましてな、どんなまずい女房も、後家になると色っぽく見えると言いますからなあ、片割となってみますと一層惜しいものでした、あの女子だけはただは置けないと、その当座は正直のところそう思いましたよ。もう、二三人の子供が出来てるんでしょうがねえ、今の御亭主の面が見てやりたいです」
「よけいな心配をしたものです」
 お角さんは深く取合わないが、何か一道の魅力がありそうで妙に気が引かれる。
 男を殺して、自分だけが生き残った女の尽きせぬ業《ごう》というものが、ほんの行きずりのこの取巻屋をさえ、いまだに引きつけている魅力というものを以てして見ると、その女も、必ずそれからまた罪を作り出しているには相違ない。
 さればこそ、三輪の里には業風が吹きそめて、藍玉屋《あいだまや》の金蔵はそれがために生命《いのち》をかけた。そこまでは、この一座の誰でもが知らない。とにかく無事に永らえているとすれば、あの女にも、はや二人三人の子供があってよいはずと、その辺にだけ気を揉んでいる間は無事でしたが、その時に船首の方に当って、急にけたたましい声――
「ござった、ござった、正体が届きましたよ、御推察の通り抱合い心中、それそこに流れついた土左衛門とお土左がそれじゃ」
 湖面を見つづけていた船頭の叫びで、水手《かこ》共が、よってたかって眼を皿のようにする。
 二間ばかり近く、波の間に、ふわりふわりと浮いては沈み、沈みては浮び来《きた》る物体がある。予備知識がもう十二分に出来ているから、誰もそれを見誤るものはない。しかも、浮きつ沈みつして、上になり下になり流れ漂う物塊は、人間の死骸が二つ、からみ合ってたがいに放さない形になったまま、見た眼では、まだたしかに息が通っている、生温かな肉塊とさえ見えるのが重なり合って、船をめがけて、からまって来るのです。
 船頭《せんどう》水夫《かこ》も昂奮したが、船上の一座もすくんだように重くなって、立ち上る元気よりは、怖《こわ》いものを見る心持が鉛のようになる。

         六

 事態は重くるしかったけれども、手数は極めて簡単でした。船をめがけて漂い来った二つの抱合い死体は完全にこの船の内部に助け上げられました。その報告を綜合してみると……案のごとく男女の抱合い死体であったこと。
 ことにお角さんの予言的中して神《しん》の如く、男が年上で、女がズッと年下であったこと。
 さりとてお半と長右衛門ほどの相違ではないが、女はお半だとしても、相手がとうてい長右衛門では有り得ない、黒い衣紋《えもん》のうらぶれの三十いくつの浪人風情であったということ。
 帯のない女の衣裳形が、水手《かこ》たちの口の端《は》に上らないところを以てして見ると、これは早くもお角さんのたしなみが与《あずか》って救われたものです。お角さんは従容《しょうよう》として言いました、
「これは心中じゃありませんよ」
 心中でないとすれば、脅迫か。脅迫とすれば力の問題だから、この小娘がどう間違っても、このおさむらいを脅迫する道理はないから、女の子がこのさむらいに無体な脅迫を受けて、水に逃れようとしたのを、男が追いすがって、我がものにした。
 そう解釈してみると、解釈しきれないのは、では、ナゼ男も死んだ、これだけの男ならば、水練がないはずはなし、どう間違っても、この小娘一人を水上に扱い兼ねる代物《しろもの》ではないはずなのに、おぞくも生死を共にして抱合いの形に落ちてしまった。それがわからない。
 がやがや騒ぐ水手《かこ》楫取《かじとり》どもをおさえた船頭が、またも何か驚異の叫びを立てて、
「おかしい……二人とも、ちっとも水を呑んでいねえぞ」
と言いました。
 水を呑まない溺死人ということは、この際、考うべきことでした。
 抱き合って身を投げたものが、浮きつ沈みつ、ここまで漂い来《きた》ることの間に、水を一滴も飲まないということは有り得べきことでない。もし飲んでいないとすれば、それは飲まないのではなく、飲ましめなかったのだ。満々たる水の世界に身を投じて、ともかく、相当の深さまで究《きわ》めたはずのものが、水を飲んでいないということは、あらかじめ水を飲ましめないようにしてあったのか、そうでなければ、舟を出る時に、のみたくも飲めないような生理状態になっていたのか、ということが疑問になるのです。
 この疑問は、物に慣れた船頭が直ちに解釈してくれました。
「それは、この娘に水を飲ませまいとして、このおさむらいが当てたんですよ、一当て当身《あてみ》をくれて息の根をとめて、それから水に入ったんですから、それで女の子が水を呑んでいない――おさむらいの方は、何か別に仕方があったんでござんしょう、そうでなければ疲れてうっとりと来てしまったんでござんしょう、とにかく、どっちも、まだ脈はあるんですぜ」
 二人の生命《いのち》にまだ見込みのあるということを、物に慣れた船頭が保証しつつお角さんに報告しました。とにかく、そこで二つの生命は引上げられたわけです。まだ生命としては、どっちのものかわからないながら、水中から船の上へ取上げられて、そこで、心得ある人々に介抱されて、専門家こそ乗合わせていなかったが――道庵先生の如き専門家が居合わせなくてかえって幸い――物に慣れた人から完全に生き返ることを保証されて、何はともあれ安静のところに置くことが養生第一として、船の一室に、無事に納められました。伊太夫は、この二人の遭難者を、わざわざ席を立って見に行こうとはしなかったが、かりそめにも自分の主となった船の中で、二個の生命を収得し得たことを満足としないわけではない。お角さんとしては、実際に立会って、つぶさに二人の者を観察したようですが、その報告はまだ纏《まと》まって伊太夫の前に齎《もたら》されず、また齎される遑《いとま》もなく、取巻子は幾度か同じような場所で、同じような情景を見せられることに奇異の感情を加えただけで、何が何やら煙に巻かれているような事体のうちに夜が明けなんとしました。
 夜が明けかかると、今までの霧にこめられた湖面の白さとは性質を異にした、光明を含んだ白さが湖上に流れ出したと見ると、それにつれて、ようよう霧も亡び去って行く。霧の晴れ間を湖水がひたひたと侵略して行って、夜が全く明けた時分に、船がピタリと停った前面を見ると、もう竹生島の全面が行く手にうっすらと、墨絵がにじんだように浮んでおりました。

         七

 朝まだき、伊太夫の大船が、竹生島の前に船がかりしてまだ動かない先に、一隻の早手《はやて》がありまして、これは東の方から真一文字に朝霧を破って走りついて来ました。走りついたというけれども、伊太夫の船に向って走りついたわけでないことは、その来《きた》るところの方向が全然違っていることでもわかる。たとえば、伊太夫の船が大津を出でたとすれば、この早手は、その反対側の長浜方面から走って来たものであることは確かです。そうして朝霧を破って、なお急調
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