で走って行くくらいですから、昨宵の霧も、昨晩の霧も、同様の整調で破って来たと見なければなりません。
そんならば、同じように、この竹生島めざして舟がかりをするかと見ればそうではなく、霧が破れようが、夜が明けようが、急ピッチは変らない。名にし負う竹生島もよそにして、漕ぎ行くことは矢の如く、その行手は、ちょうど、夜明け前に平面毒竜が盃《さかずき》を追うて流れた方向に向って急ぐのですから、めざすところは湖中の何物でもなく、湖岸のどの地点にかあるのでしょう。
急ピッチで、竹生島の眼前を乗打ちをしながら、さいぜん船がかりをしたばっかりの、伊太夫の大丸船《おおまるぶね》を朝もやの中から横目に睨《にら》んで、この早手の中の一人が言いました、
「あれが百艘《ひゃくそう》のうちの一つなんです、あの船が、木下藤吉郎の制定した百艘船の一つなんです、今はすたりましたが、一時はあの大丸船でなければ、琵琶湖に船はありませんでした、船はあっても、船の貫禄がなかったものです」
こう言って、相対した一方の人に向って説明をしますと、その相対していた一方の人というのが無言で頷《うなず》いているのにつけ加えて、
「竹生島が朝霧の間に浮いて、あの大丸船が一つ船がかりをしている、湖面がかくの如く模糊として、時間と空間とをぼかしておりまする間は、我々も太古の人となるのです、太古といわないまでも、近江朝時代の空気にまで、我々を誘引するのですが、夜が明けると、近頃の琵琶湖はさっぱりいけません、沿岸には地主と農民の葛藤《かっとう》があり、湖中にはカムルチがいたり、塩酸が流れたり……この湖水を掘り割って北陸と瀬戸内海を結びつけたら、舟運の便によって、いくらいくらの貿易の利が附着する、また湖水を埋め立てて、何千|頃《けい》の干潟《ひがた》を作ると何万石の増収がある、そういうことばかり聞かせられた日には、人間の存在は株式会社の社員以上の何ものでもありません。人生はすべからく夢を見ることですな、人生から夢を奪うのは、琵琶湖をすっかり干し上げて、田畠《でんぱた》に仕上げるのと同じことです、少なくとも我々は、今のうちに夢を見て置かなければならないでしょう、まだまだ夜と朝とは、我々を誘《いざの》うて古《いにし》えの夢を見せるに足るの琵琶湖であり得ることを、せめてもの幸いとしなければなりません」
早手は早くも竹生島の前面をかすめ去って、問題の大船も後ろに見るくらいに、急行をつづけているにかかわらず、舟の中の人は、年代を超越した悠長さで、時代と歴史とに向って感想を発しました。これはたしかに不破の関守氏に相違ありません。
現に胆吹王国の総理であり、参謀総長を兼ねていたはずの不破の関守氏が、急に水上の人となり、早舟の急がせ方はこうも急調なるにかかわらず、語るところのものは頗《すこぶ》る悠長です。しからば、その相手となっているのは何人か。近ごろ近づきの青嵐居士と、不破の関守氏とは、よく話が合う、今日もその人を同行の、釣の脱線かと見るとそうではないのです。関守氏の相手に控えている人間は、決して青嵐居士のような饒舌家《じょうぜつか》ではない、あくまでも関守氏に喋《しゃべ》らせて、自分は、言語と態度を極度に惜しむかの如く、傲然《ごうぜん》として、それに聞きいるだけの姿勢にいる。しかも、不破の関守氏も御免を蒙《こうむ》って、一種風雅な檜笠をかぶっているが、これは日を避けんがための実用として容赦さるべきにかかわらず、前に対して彼の話を受入れているこの人は、最初から覆面の仕通しです。
苟《いやし》くも人に対して正坐する時に、己《おの》れの覆面を取らずしてこれに対するということは、非常なる無礼であり、傲慢でなくて何であるか、臣下に対してさえも、対坐には相当の礼があるべきもの、それにこの人は、不破の関守氏ほどの人物を前にして、覆面のままで、傲然としてこれに応対し得る強権の人。誰彼と言おうよりも、当時これだけの権式を持ち得る人は、胆吹王国の女王様以外には、その人のあるべきはずがない。
平明に言ってしまえば、この早手の中の対坐の客は、お銀様に対する不破の関守氏であって、それに従者が一人、神妙に後ろの方に控えていると、蓑笠《みのがさ》をつけた舟夫《せんどう》が一人、勇敢に櫓《ろ》をあやつっているだけのものです。
早手は急ピッチを変えず、島も大船も見えずなり、それにまたもや一陣の霧が、一むれ襲うて来たものですから、四辺《あたり》は煙波浩渺《えんぱこうびょう》たり、不破の関守氏の懐古癖が充分に昂上を見たと覚えて、
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大船の――
かとりの海に
いかりおろし
いかなる人か
物思《ものも》はざらむ――
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朗々たる名調子で、一種独得の朗詠が湖上の上に漂いました。
八
湖面が再び白殺《はくさつ》されて、夜が明けたのか、月が出戻ったのかわからないような気分のうちに、大船も、早手も、みんな隠れてしまっている。その中から、不破の関守氏のいい心持になった懐古の饒舌が続いている、
「いい歌です、ともかく大湖の面《おもて》に船がかりして、ああして安定しているあの大船を見ると、まずこの歌が心頭に上って来ます、単にいい歌とか悪いとかいう批評を超絶した歌です、大きな鳴動であり、大きな姿勢ではありませんか、古今無双です、まさに天地の間《かん》に並び立つものがありませんな」
関守氏が自己陶酔的に感歎している。その傍らから、お銀様の傲然たる声音《こわね》で、
「それは、かとりの海――この琵琶湖のことじゃありません、琵琶湖は大きいのなんのと言っても、涯《かぎ》りの知れた湖です、かとりは海ですからね」
「なるほど……そうおっしゃられると、拙者もそこに、かねがねの疑問を持っていたのです、お言葉通り、かとりの海と人麿《ひとまろ》は詠みました、かとりといえば、たれしもが当然、下総《しもうさ》常陸《ひたち》の香取《かとり》鹿島《かしま》を聯想いたします、はるばると夷《えびす》に近い香取鹿島の大海原《おおうなばら》に、大船を浮べて碇泊した大らかな気持、誰もそれを想像しないわけにはいかないのですが、拙者はこの歌を酷愛する一人であるにかかわらず、この歌の持つ空間性に、まだ疑いが解けきれないというのは、第一、柿本人麿《かきのもとのひとまろ》という人が、あの時代に、東《あずま》の涯《はて》なる香取鹿島あたりまで旅をしたことが有るかないかということです。その次には、下総香取の海とすれば、香取のどの地位に船を碇泊せしめたかということです。下総の香取に大船津《おおふなづ》というところがあるにはありますが、仮りにあの辺に船を回漕せしめたとしても、その船は、どういう船の持主によって、ドコの浜から回航されたかということ……一説によりますると、ここのいわゆるかとり[#「かとり」に傍点]の海というのは、下総常陸あたりをあげつらうべきものでない、大津の宮に近い湖岸の一角にかとり[#「かとり」に傍点]の浜、或いはかとり[#「かとり」に傍点]の海と呼ばれた地面、或いは水面が、その当時存在していたのだ、ということを言いますが、或いはそれが正しいかも知れません。そういうことは、池田良斎がよく知っています、我々無関門の鑑賞者は、まずその歌の持った無限に大きな音階と、姿勢に打たれるだけでよろしい、和歌といえども、大きなものになると、誦《しょう》すべくして解すべからずでよろしい。たとえば、他に人麿の歌にしてからがです、
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ともし火の
明石大門《あかしおほと》に
入らむ日や――
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吟じてごらんなさい、声は千年の深韻を以て響き、調べは千古の心に微妙に沁《し》み渡るです。拙者はこれがまた大好きな歌の一つでしてね、これを吟ずると陶酔するです。ところが、この歌の全体の解釈に至ってみると、人麿が西海から帰る時の歌だか、西国へ向って出て行く時の歌だか、その帰趨《きすう》が甚《はなは》だ不明瞭を極めてくるという次第ですが、そういう解釈の如何《いかん》にかかわらず、その想に驚き、調べに酔わされることは渾心的《こんしんてき》です」
お銀様を前にして、こういう歌物語をはじめている。広長舌は必ずしも弁信法師の専売ではない、ということはわかるのですが、いったい今時、船をこんなにまで急がせながら、乗り手ときてはこの通りの悠長さ、それに第一、女性の方は女王であり、男性の方はその総参謀長であるべき身が、二人ともに山を出てしまったのでは、留守のことも思われるではないか。
そもそもこの二人は、何の要あってか、かくも急行船に乗り、いずれの地に向って走り行くものか。沿岸に向って、遠く大津朝廷の故事を偲《しの》び奉り、或いは藤樹先生《とうじゅせんせい》の遺蹟に巡礼するというようなことをするには、他にその人もあり、時もあろうというもの。行きがかり上、風流をこそ談ずるらしいが、少なくともこの二人が舟を急がせて行く以上は、左様に漫然たる遊歴の旅ではないにきまっている。
そこで、この行程の底を割ってしまえば、実は不破の関守氏のたっての献策で、お銀様を父親伊太夫に会わせにやるのです。
父といえども、来《きた》り見るなら格別、行いて礼をすべきなんらの心構えを持たないという女王様を、不破の関守氏が説いて、口説《くど》き落して、自分が介添《かいぞえ》となって、いま大津の宿に逗留の日を送っているという父の伊太夫を、これから訪問せしめようとすることに成功して、善は急げと急ピッチを上げさせた、これがこの早手の飛ぶ使命の全部なのです。
訪ぬべき当の主《ぬし》は、今し問題の大船にあって、竹生の島の前面に船がかりをしているのだから、かくも急ピッチで早手が大津方面へ乗りつけてみたところで、その当座は当然行違いにきまっている。そういうことは知ろう由もない不破の関守氏には、この女王を父に会わせれば会わせるで、そこに相当の秘策がある。この女王様を父と会わせるに就いては、自分が介添となるべきことを最も有利なりと信ずるものがあればこそ、彼は女王を擁して、善は急げで、内外の多事多端なる責任の地位を抛擲《ほうてき》して急行しつつあるものでしたが、その秘策のいかなるものであって、成功すべきや、せざるべきやは未来の疑問としましても、お銀様の黒幕にこの人がいることは、伊太夫の傍らにお角さんが取巻いているよりは、遥かに智嚢《ちのう》が豊かで、舞台が大きいことは申すまでもありますまい。
九
西国旅行をかこつけに、そこは親心の甘さで、胆吹王国のやんちゃ娘の行動視察を眼目とする伊太夫が大津にいない時に、お銀様と不破の関守氏の一行は大津へ着きました。
当座の行違いになってしまったのですが、その際、当座の在と不在の如きは、さのみ問題ではない。関守氏は、目的地に着いたからといって、驀直《ばくじき》に目的に向ってこせつくような軽策を取らない。悠々としてお銀様を押立てて別に宿を取って長期の形を構え、副目的が主目的を牽制しつつ、その帰るを待つことを遅しとしない策戦を取りました。
この総参謀長不破の関守氏は、女王様を盛り立てて、これに絶対服従の範を示すと共に、一方には女王様を後見して、これを教育するの心がけを忘れない、ただ、その教育ぶりがあくまで六韜三略的《りくとうさんりゃくてき》であることが、この人の特徴になっている。美濃に縁があるだけに、竹中半兵衛式の芝居がついて廻るように思われる。その点に於ては、この人も、お角さん同様の興行師的素質を多分に持ち合わせていると見なければならない。ただしかし、野心満々たる不破の関守氏が、お銀様を動かして父に会わしめようとする魂胆の裏には、やはり、伊太夫の金力があると見なければならないことは確実だが、お角親方の方は、いかに腕によりをかけてみたところで、タカが仕込みとか仕打ちとかの融通の水の手がつなげればよろしい、あえて伊太夫の身上にビクとも響くものではないが、不破の関守氏などにへたをやられると、一国一城
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