而シテ、生活ノ第一歩ヨリ踏ミ出サザルベカラズ、ソノ艱苦経営知ルベキナリ。サレバ、ソノ三ヶ月ノ間ニ、コノ一行ノ死セルモノ約半数ニ及ビタリ、一日ニ死スルモノ二三人、百二名ヲ以テ上陸シタル一行ハ三ヶ月ニシテ五十名ヲ余スノミ。
内ニ信仰ノ火燃ユルガ如ク、外ニ国民性ノ堅実|不撓《ふたう》ナルニアラザレバ、イカデカコノ悲惨ニ堪ヘ得ンヤ。絶望シ、悲観シ、空シク絶滅スルカ、然ラズンバ辱《はじ》ヲ忍ンデ逃ゲテ故国ノ空ニ帰ランカ。シカモ、彼等ノ一人モ意気精神ノ阻喪《そさう》スルモノヲ見ザリキ。
彼等ハ、先ヅ荒土ヲ拓《ひら》イテ種ヲ蒔《ま》キタリ。熟土ヲ耕ストハ事変リ、前人未開ノ地ニ、原始ノ鍬ヲ用フルノ困難ハ知ル人ゾ知ラン。彼等ガ農法ハ新陸ノ土地ニ適セザルカ、彼等ノ携ヘ来レル種子ハ新地ニ合セザルカ、苦心経営ノ初期ノ収納ハ遂ニ皆無ナリキ、而シテ土人ヨリ分与受ケタル玉蜀黍《たうもろこし》ノミガ成功シ、コレニヨツテ僅カニ主食ヲ備ヘ、漁猟ヲ以テコレヲ補ヒツツ、辛ウジテソノ年ヲ送ルヲ得タル也」
[#ここで字下げ終わり]
 こういったような史実は、駒井甚三郎にとっては、今まで全く門外のことでありました。亜米利加建国初期の開拓者が、こんなような苦難を嘗《な》めて来たということは、今日までの駒井はほとんど無関心であって、ただ彼は開明の国、人智と機械力とで日本を高圧したり、開国に導こうとしたりしている国、その物と力の発明には、何と言っても一日も一月もの長所があることを、駒井の如きは最も強く認めた一人でありまして、人から西洋心酔者とうたわれるまでに、西洋特に亜米利加の文物の研究のことに熱心であった駒井は、その原始に遡《さかのぼ》って、今日の開明人にもかくの如き苦心惨憺の経営時代があったということを、今日はじめて身にしみじみと味わうことができました。
「おれは今まで苦労をしないで学問をした、その罪だ」
というようなことを、同時に駒井が自覚したというのは、過去の自分は先祖の功業によって、天下の直参の誇りの中に生き、豊かな経費を持って、欲しいものを購《あがな》い得られた。その順境に於て学問をして来たのである。だから、順境そのものが天然に与えられた当然の地位だ、と慣《なれ》っ子《こ》になって事をなしつつあったのだが、自分の昨日の安定を与えたものは、徳川初期の先祖の血の賜物であったに過ぎないということを、今しみじみと自覚せしめられました。
 そうして、今日は全く赤裸にかえって、先祖のなした創業の第一歩を踏むの心持で進まなければならぬことがよくわかってきました。その心境にいて見ると、右の如く自由の天地を求めて船出をした異郷の先人の行路に、無限の教訓と、同情を起さざるを得ない――といって、この書の教うる「信神渡航者」の船出と、現在自分が試みつつある無名丸の出発は、性質に於ても、経験に於ても、全然性質を異にしていることを覚らざるを得ないという次第でした。
 無名丸はまだ無名丸である、しかとした船の名目すらが出来ていない。名は体をあらわすものとすれば、無名丸そのものの内容が無目的なのであって、形は出来て、歩行はつづけられるけれども、頭もなければ肚《はら》もないのだということを、駒井はつくづくと考えさせられてきました。
 さりとて、自分はイエス・キリストを信ずるものではない、イエス・キリストを信ずるどころではない、日本の宗教のいずれにも信仰者とは断じて言えない。この点に於て、無名丸は無信丸である、五月丸とは天地の相違がある――我等の無名丸の中には、金椎《キンツイ》を除いて祈る人などは一人もいない。五月丸の中には、僧侶、軍人、英雄、豪傑といったようなものは一人もいなかったそうだが、それが今日の亜米利加《アメリカ》の強大の礎石となったということは、絶大なる驚異だ。
 それに反して我が無名丸の中には、少なくとも貴族がいる。自分から言うのは烏滸《おこ》がましいが、現在自分の身柄がすでに貴族でないと誰が言う。日本に於て、殿様の階級に属して天下の直参を誇っていた身だ。それに田山白雲はまた一種の豪傑である。七兵衛は異常な怪物である。茂太郎は変則の天才であり、柳田平治は豪傑の卵である。お松は堅実なる女性である。金椎は聖者に似ている。普通平凡なのは、農夫、漁師、大工、乳母だけにとどまる。上は天才聖者に似たのがいるかと見ると――下は性の開放者までいる。数こそ少ないが、この船の中の人間と、その性格に至っては、紛然雑然として帰一するということを知らない。
 五月丸の乗組は、その信仰と結合に於ては一糸も紊《みだ》れない、おのずからなる統一を保って、生死を共にして厭《いと》わない温かさに終始していたが、自分の船に至っては、なんらのまとまった信仰がなく、なんらの性格的帰一がない。これでいいのか、と駒井甚三郎が、この点に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。
 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。
 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。
 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易《ばいかしんえき》に求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に未《いま》だ解決せざる問題が充ち満ちている。
 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。

         三十四

 すべての人が、その領土に於て、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠《よ》り、駒井甚三郎は海により、竜之助は夢の国に生きている。その他の者は、多くはみな現実の国に於て生き、おのおのその能によって働いている。自ら自覚するとせざるとにかかわらず、おのおのの生きる立場に於て生かされているというわけで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の如きでさえも、足の使命によって、まだ捨てられないものがあるのに、ひとり道庵先生だけが、この頃に至って、甚《はなはだ》しく生活の空虚を感じて、悲観に落ちていると言えば、知らないものは嘘だと言うかも知れないが、事実それに相違ないのは不思議です。
 何故に道庵が生活に空虚を感じ、人生の悲観に落ちかかっているかといえば、その内容は複雑怪奇で、一概には言えないけれども、連合いを亡くしたということも、その有力な原因の一つには相違ないのです。
 連合いといっても、俗に枕添《まくらぞい》のことではない。吾人は道庵先生に親炙《しんしゃ》すること多年、まだ先生に糟糠《そうこう》の妻あることを知らない。よってこの先生が、枕添の有無《うむ》によって、生活観念に動揺を将来したというべきは有るべきことでない。連合いということは、この場合に於ては、同行者の意味に過ぎないのであって、彼はこの木曾道中の長い間、ドンキホーテ氏のサンチョー氏に於けるが如く、栃面屋《とちめんや》氏の北八氏に於けるが如く、影の形に於けるが如く、相添うて来たところの、いわゆる鎌倉の右大将米友公を失っている。失ったのは亡くなったのではない。あの男を胆吹山へ取られてしまっているが、その後の死生のほどもわからない。米友公を捨て、悍馬《かんば》の女将軍女軽業興行師のパリパリに乗替えたが、こいつが意外に道草を食いはじめて、自分よりは藤原の伊太夫なにがしという財閥へ附きっきりで、てんで道庵の方などへは見向きもしない今日この頃の形勢である。道庵先生としては、それをひが[#「ひが」に傍点]んでいるわけではない。誰にしても、十八文の貧乏医者を取持つよりは、当時きっての分限《ぶげん》の御機嫌を取ることの有利なるに走るのは人情だから、いまさら道庵が、そんなことにひがみ[#「ひがみ」に傍点]を起しているほどの野暮《やぼ》ではないはずだから、特にそれを悲観しているとも思われません。
 道庵先生が、生活の空虚を感じて、人生を悲観している最大なる理由としては、現在の自分が、徒手遊食の徒に堕しきっているという点にあるらしいのです。前途の旅を急ぐなら急ぐでいいけれど、こうして途中へひっかかって、京都がもう眼の先に控えているのに、進みもならず、退きもならずしているうちに、本来そうあり余るという身代《しんだい》ではないから、懐中が少しずつ寒くなる。懐ろが寒くなると同時に心細くなる。その経済上の理由も一つはあるのです。しかし、その辺は、まかり間違えば金策の大家なるお角さんが附いており、お角さんの背後には、一大財閥が控えているのだから、ずいぶん心丈夫であってしかるべきだが、そこは痩《や》せても枯れても道庵である、財閥にすがるというような卑劣心が兆《きざ》してはならない。御粗末ながら自分の旅は、自分の財布でまかなうよと、意地を張っている。その意地が怪しくなった時は、すなわち心弱くなった時で、これでは旨《うま》い酒も飲めねえが、なんどと感じて来た時に、いささか悲観するかも知れないが、そんなことは今に始まったことではない。いまさら物質的の貧乏を以て生活の空虚なりと、この先生が考えるわけがない。何となれば、貧乏が即ち道庵、道庵が即ち貧乏と、それを一枚看板に今日まで生きて来た先生ですもの。
 江戸にいれば、押しも押されもしない医術本業の公民だが、現在の自分は、徒手遊食の民である、人生に貢献する何事もしていないで、そうして人生から食物を貪《むさぼ》っている。食だけではない、酒まで貪って飲んでいる。これでいいだろうかと深刻(?)に自省を発し出したことが、この先生の生活の空虚を感じ出した最大の理由なのです。
 長者町の本業を、高弟の道六に引渡して、身軽に旅に出て今日まで来たのはいいが、旅そのものを味わっていれば、日々の心がおのずから緊張もするが、こんなふうにして、進みもならず、退きもならず遊食していることは、この先生の良心に於て甚だやましいものがあるのです。日頃の主義主張としても、一日|作《な》さざれば一日食せずという気概の下に働いて来たこの先生が、このごろでは一日中、何も作さずに、のんべんだらりと、食ったり飲んだりしている日が多い。こんなはずではなかったのだ。
 そこで道庵先生は、こう毎日、のんべんだらりとして宿屋の飯を食っていることに生活の空虚を感じ、これでは天道様に対して相済まないと自省してから、こういう無意識空虚な生活から一日も早く脱却向上しなければならぬと義憤を発したのです。
 しかし、そのくらいならば、一日も早く京都へ立ったらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいいだろうというに、なかなかそうもいかない事情があるのです。
 というのは、道庵先生には敵が多いということがその理由の一つなのです。丁馬、安直、デモ倉、プロ亀、どぶ川、金茶、大根おろし、かき下ろし、よた頓、それらの輩《やから》は眼中に置かずとしても、河太郎の一派が大阪で手ぐすね引いて待構えている。これにはさすが江戸ッ児のキチャキチャ(チャキチャキの誤り)弥次郎兵衛、喜多八でさえも荒胆《あらぎも》をひしがれたので、この一派は江戸者に対して常に一種の敵愾心《てきがいしん》を蓄えている。一くせ[#「くせ」に傍点]ある江戸者が来たと聞くと、早速奇正の術を弄《ろう》してそのドテっ腹をえぐり、これに一泡吹かせて快なりとする悪い癖がある。その一味が、道庵来れりという内報を早くも受取って、用意おさおさ怠りがないらしいから、うっかり乗込もうものなら、忽《たちま》ちわなにかかって、十八文の金看板に泥を塗られるにきまっている。
 それからまた大阪には、緒方洪庵塾《おがたこうあんじゅく》などの無頼書生、翻訳書生が、これもまた道庵西上ということを伝え聞いて、手
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