ぐすね引いている。この派の者共は、河太郎式の草双紙本と違って、みんな蘭学の方のペラペラである。皇漢主義の、江戸でも知る人は知る、知らぬ人は知らないつむじ曲りの町医者道庵なるものが、こんど京大阪へ乗込んで来るそうだ。来たら袋叩き――と待ちかまえているという風聞が、かねて道庵の耳に伝わっている。
その中へ一人では乗込めない――内心を聞くと、道庵も鼻っぱりに似合わず弱気なもので、そういう理由から危うきに近よるには、近よるようにして近寄らなければならないのだが、用心棒としての精悍無比なグロテスクは行方不明だし――女流興行師の大御所は、財閥に胡麻《ごま》をすることに急にして、自分の方はかまってくれない、頼む味方というものがない――それを心細がっている道庵は、我《が》を折って、お角さんの用のすむのを待ちわびて、これが同行を離れまいとしているところは、女にすがる意気地なしの骨頂のようでもあり、道庵の風上へも置けない醜態のようでもあるが、実のところは、あのたんか[#「たんか」に傍点]の切れる江戸前の鉄火者《てっかもの》を陣頭へ押っ立て、自分は蔭にいて、ちびりちびりとやりながら、女弟子でさえあの通り――うっかり親分にさわるまいぞ、という威力を見せて鴨振《カモフラ》しようというズルい考えがあるのです。つまり、面倒臭いことはお角にぽんぽんとやらせて、ごまかしてしまい、自分は隠れて一杯もよけいに飲みたいという腹なのですからズルいです。しかし、また一方、お角さんの方から言うと、自分もこれから京大阪の本場へ乗込むについて、この先生から離れたくない、この先生を手放したくない、という浅からぬ底意もあるのです。
というのは、お角さんは、啖呵《たんか》は切れて、鼻っぱしの強いことは無類であって、この点では贅六《ぜいろく》人種などに引けを取る女ではないが、悲しいことには字学の方がいけない。熱田神宮の門前の茶屋でも、小娘に向って、「姉さん、ここの神様は何の御信心に利《き》くの」とたずねてテレてしまったことがある。ある時の如きは、皆々がよってたかって、舶来物が出来がよくて、和製はいけない、いけない、なんどとケナすのを聞いて、ムカッ腹を立て、「どうして、日本じゃ舶来が出来ないものかねえ」と口走って、一座の顔の色を変らせたことなんぞもある。そういう時に、お角さんの威勢に怖れて、明らかには笑ったり、そしったりしないけれども、この気色を見て取って、お角さん自身が、こいつは少し恥を掻《か》いたかなと、なおやきもきする。人の掛合いや兼合いでは、京大阪へ出ようと、唐《から》天竺《てんじく》へ出ようと、引けは取らないお角さんだが、字学の方にかけると、気が引けてどうにもならない。そこのところを埋合わせるには究竟《くっきょう》な道庵先生である。この先生こそは江戸で名代の先生であって、酒を飲んでふざけてこそいるが、字学の出来ることは底が知れない。こういう先生を後楯《うしろだて》に控えて行けば、ドコへ行こうと鬼に金棒だという観念がお角さんにはあるので、つまり、インテリ用心棒としての道庵先生を手放したくないのです。
おたがいに、そこのところを利用し合って、うまく立廻ろうというズルい了見なのだが、それは双方とも甲羅を経ているから、勝負に優り劣りはありますまい。
そういうわけで、道庵先生は、ここはどうしても、女親方の方の埒《らち》があくまで待つことを以て策の得たるものとする。それも、そう永い時日を要せずして埒があくに相違ないと思っているが、たとえ二日三日の間にしてからが、何か仕事をしたい、何か利用厚生の仕事にたずさわらなければ、自分の生存が徒手遊食ということになり、なおむつかしく言えば、尸位素餐《しいそさん》ということになる。徒手遊食だの、尸位素餐だのということは本来、貴族社会のすることで、道庵の極力排斥し来《きた》ったことであるから、たとえ二日でも三日でも、その生活をやっているということは、多年の敵の軍門に降るようなものである。何か仕事をしなくちゃあならねえ、何か稼《かせ》ぎをして飯を食わなくっちゃあ天道様《てんとうさま》に申しわけがない、と言って退屈して、生活の空虚を感じているところへ、話があったのは、
「どうです、先生、旅籠生活《はたごせいかつ》も御退屈でございましょうし、太夫元さんの方も、ここのところ、乗りかかった船で、なお二三日は引くに引けないんだそうでございますから、どうか、もうあと二三日の御辛抱が願いたいのです、何でしたら、この上の小町塚の閑静な庵《いおり》に、ついこの間まで女のお方が御逗留でいらっしゃいましたが、そのお方が大谷風呂の方におうつりになって空きましたそうで、関寺小町の跡でございまして閑静でもございますし、ながめが至極よろしうございます、それに、便もまたよろしうございまして、お酒の通いなども、ちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]とございます、何でしたら、あちらの方へ御転宿をなさいましたら……」
伊太夫の家来と、お角さんのおつきとが、こう言って御機嫌を取ったものですから、道庵先生もいささか悲観を立て直し、
「そいつは面白い、小町なんぞは、わしには縁がねえが――何か、生活に変化を与えてもらいてえと考えていたところさ、宿屋の飯は悪くて高いからなあ――(この時、障子の外を宿屋の番頭が通る、二人の者が首をすくめるこなし、道庵は平気)何もしねえで、悪くて高い宿屋の飯を食っていることは天道様に済まねえ、何か生活に変化を与えて、充実した仕事をやりてえと思っているところだ、そういう空家があるなら、早速世話をしてもらいてえ。実はね、いろいろ考えたこともあるんだ、そういう閑静なところで一仕事やって、この退屈時間を有利に使用してえと考えていたところなんだ、そういう空家があると聞いちゃあ耳よりだね」
「それはもう至極閑静な、ながめもよろしいところでございます」
「実は、こうしている間に、そこで本草《ほんぞう》の研究をやりてえんだよ、胆吹山で、しこたま薬草の標本を取って来ているが、それも押しっぱなしで、風入れもしてなけりゃ、分類もしていねえんだから、ひとつそれを一心不乱に片づけてみてえと思っているところさ」
「そういう研究をなさるには、至極結構なところでございまして、その上に便も至極よろしく、石段を下りますともう町屋でございますから……酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]」
「その便のいいところが、老人には何よりさ、お酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]というやつがばかに気に入ったねえ、お前さんも洒落者《しゃれもの》でうれしいよ」
「あ、は、は、はっ、はっ」
そういうわけで、この先生が旅籠屋から移動せしめられたところは、つい一昨日までのお銀様のかりの住居《すまい》――小町塚の庵なのでありました。
三十五
道庵先生がこの庵へ移った時の庵と、お銀様が寓居《ぐうきょ》していた時の庵と、庵に変りはありませんが、中の意匠調度は一変しておりました。変らないのは、かのしょうづかの婆さんの木像のみで、書棚もしまいこまれてしまったし、算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》も取りのけられて見えない。「花の色は」の掛物も取外されて、別に何か墨蹟がつっかかって、その下には、松が一枝活けてあるばっかり。
床の間へ摺《す》り寄って見た道庵先生は、このかけ替えられた軸物を、皮肉らしい面《かお》をしてつくづくと見つめると、
[#ここから2字下げ]
鼠入|銭※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]《せんとう》伎已窮
[#ここで字下げ終わり]
と、いけぞんざいに書きなぐってある。その下の落款《らっかん》を見ると、「一休純」と読める。そこで道庵先生が、
「一休め、皮肉な文句を書きやがったな」
と一謔《いちぎゃく》を発しただけで座につきました。座につくと、座蒲団《ざぶとん》も、机も、煙草盆も、普通一通りのものが備わっていて、お銀様の時のとは品は変るが、万端抜かりないことは同じで、ただ坐り込んで召使を呼びさえすれば事が足るように出来ている。
そこで、一ぷくしてから、先生が御自慢の本草学にとりかかりました。
つまり、宿からここへ送らせた旅嚢《りょのう》を、すっかり座敷へブチまけて、植物と押葉の分類をはじめたのです。それをはじめ出すと熱心なもので、さすがに心がけある先生だけに、つとめるところは、きっとつとめる。或るものはそれを改めて押葉とし、すでに押しのきいたものは取り出して台紙にはる。旅中では扱い兼ねる代物《しろもの》は写生にとって、図解と註釈とを記入する。牧野富太郎はだしの熱心を以て、道中、ことに胆吹の薬草の整理に取りかかっているのであります。
こういうことをさせて置けば、生活の空虚なんぞは決して寄せつけない。仕事に対する興味そのものもあるが、それが道庵先生の主義主張に合して、利用厚生の道に叶うと信ずればこそなのであります。すなわち、薬草を整理することは、本業の医学に忠実なる所以《ゆえん》であって、医学こそは自分の生存の使命である。直接には病人の脈こそ取らないが、この薬草を整理することに於て、間接には救世済民の業にたずさわっているのである、徒手遊食しているのではない、尸位素餐《しいそさん》に生を貪《むさぼ》っているのではないという自信を道庵先生に持たせることが、つまり、その生活を空虚から救って充実せしめる所以でありました。
「こうして、一日|作《な》している以上は、一日食う権利があるんだぜ、大口をあいて、この世の穀《ごく》を食いつぶしても恥かしくねえ」
と力みました。
実際、人は一心になると怖ろしいもので、道庵先生に於てすら、今日は朝の迎え酒だけで、それからはわきめもふらず本草学に熱中している。昼になっても、夕方になっても、飯の一つも食おうということを言わないし、酒の通いのちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]などはおくびにも出ないで、一心不乱になっている。この体《てい》を見ると真に寝食を忘れている。まず、この分なら安心である。この人が生活の空虚を感じて、人生の悲観に暮れるということになったら、もう天下はおしまいです。
かくして一日が暮れる。一日作した後の、一日の充実せる疲労を以て、ぐっすりとこの庵室に快眠を貪ることによって、天下泰平の兆《きざし》があります。
無論、その夜の夢に、小町も出て来なければ、お豊真三郎も出て来ない。第一、出て来る方でも、道庵先生のところへ出て来たって、出て来栄えがしない、張合いがないと思って、それで出て来ないのです。翌朝、眼がさめると、おきまりの迎え酒|一献《いっこん》、それからまた側目《わきめ》もふらず昨日のつづき、本草学の研究に一心不乱なる道庵先生を見出しました。
三十六
その翌日も、異常な興味を以て本草学の研究と整理に熱中していた道庵先生が、お正午《ひる》頃になると、急に大きなあくび[#「あくび」に傍点]とのび[#「のび」に傍点]を一緒にして、カラリと筆を投げ捨てるが早いか、座右の一瓢《いっぴょう》を取り上げて、そそくさと下駄をつっかけてしまいました。どこへ行くかと見ると、早くも長安寺の石段をカタリカタリと上りつめて、それから尾蔵寺の方へ抜ける細い山道を、松の根方をわけながら、ゆらりゆらりと登って行くのです。
ほどなく山腹の平らなところへ出て見ると、ここに、一風変った十三重の塔みたようなのがある。高さ一丈ばかり、とても十三重はないけれども、その塔の様式が少し変っているものですから、道庵先生は立ちよって、ためつ、すがめつ、石ぶりをながめていましたが、石刻の文字が磨滅してよく読み抜けないでいました。
すると、少し離れたところに、落葉を掃いている中年僧が一人おりましたが、道庵先生が、特別に注意を払って、右の十三重まがいの塔をなでたりさすったりしているのを見て、我が意を得たりとばかり、右の中年僧が箒《ほうき》を引きずりながら近寄って来まして、
「よいお天気ですな」
と言いました。
「よ
前へ
次へ
全36ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング