のこと。
 これは大谷風呂ではない、関の清水の鳥居の下から、ふらりと現われた一人の武士がありました。笠をかぶって、馬乗袴のマチの高いのを穿《は》いて手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》のいでたち、たった一人、神社の石段を下りて、鳥居をくぐって、街道へ歩み出しました。
 その時分、もう、さしもの街道にも人通りは絶えていたのです。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城《かつらぎ》まで呼びかける逢坂山《おうさかやま》の夜の峠路を、この人は夢の国からでも出て来たように、ゆらりゆらりと歩いていました。
 どうも、この骨格から、肩越し、足もとに見覚えがある。笠のうちこそ見物《みもの》だと思って心配するがものはない、前半の一文字笠が、その瞬間、紗《うすもの》のように透きとおって、面《かお》が蛍の光のように蒼白《あおじろ》く夜の色を破って透いて見えるのです。さては思いなしの通り、この人は机竜之助でありました。
 絶えて久しい、この人の姿を逢坂山の上で見る。いつのまに健康を取戻したか、姿勢はしゃんとして、しかも、足許がきまっている。杖の力を借りないで、百里も突破する体勢になっている。眼は癒《なお》ったのだろう
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