甘いんですね、ですが、その通り、あの人なんぞは本当に哀れむべき人で、憎むべき人ではありませんよ」
「よくおっしゃって下さいました、お豊は憎い女じゃありませんね」
「憎いものですか、あなたのために死んで上げたのも嘘じゃないのです、一人は死に、一人は助かったのも当人の了見じゃありません、運命のいたずらというものです」
「そうかも知れません、人間の力ではどうにもならない――まして、あの気の弱いお豊さんの力などで、この運命の大きな力というものがどうなるものですか、お豊を憎むことは、やめましょう」
「それがよろしいです、あの人は憎める人ではありません、憎むとすれば、憎んでも憎み切れない人が、まだほかにいくらもあるはずです」
「誰を憎んだらいいでしょうね」
「まず運命のいたずらを憎みなさい」
「憎みます」
「その次には、大和の国の三輪の大明神のいたずらを憎みなさい」
「え」
「三輪の大明神の神杉が、お豊さんをあやまりました」
「滅相な、神様を恨むと罰《ばち》が当ります」
「それでは机竜之助を憎んでおやりなさい」
「憎みます、憎んでも憎み足りないと思いますが、残念ながら、今のところは歯が立たないのです」
「植田丹後守を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「薬屋源太郎を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「みそぎの滝の行者を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「竜神八所の人を憎んでおやりなさい」
「憎みます、一人残らず憎みます、まして、あの藍玉屋《あいだまや》の金蔵という奴、室町屋という温泉宿を開いておりましたあいつを最も憎んでやりたい、あいつが、お豊をいいように致しました」
「いいえ、あの男も、それほど憎むべき男じゃないのです、かえって哀れむべき男なのです、最も同情すべき好人物なのですよ。幽霊の戸惑いは落語にもなりませんから、恨むにしろ、憎むにしろ、よく気をつけてしないといけません」
「憎い、憎い、誰もが憎い、お豊の身体《からだ》と魂とを、わたしの手から奪い取って、再び世間のなぶりものにした、すべての人を憎みます、呪《のろ》います、恨みます」
「そう言うお前さんは、真三郎さんという優男《やさおとこ》の本色を失って、どうやら、金蔵さんとやらの不良が乗りうつっているようです」
「そんなはずはございません」
「それでもそうとしか見えません、致されるものが致されてしまいました、人を呪わば穴二つということがそれなんです、あんまり強く人を恨んで人につきたがるものですから、かえって、お前さんが人につかれてしまいました。今のお前さんの狂態痴態というものを見ていると、京の六条でうたわれた大家の坊《ぼん》ち真三郎はんの本色は少しもなく、あの三輪の里の不良少年が、そっくり乗りうつりの形になっておりますよ、お気をおつけなさい」
「左様でございましたか、つい、とりのぼせましたために、見苦しいところをごらんに入れて、まことに相済みません、改めて自省を致します」
「殊勝なことです、そういう和《やわ》らいだ気持になることが自分を救います、同時に人を救うわけになるのですね、憎み、恨み、呪うことによって、決して、自分も、人も、救われるということはありませんからね」
「有難うございます」
「昔の真さんにおかえりなさい」
「そう致しましょう」
「真さん」
「はい」
「京の六条の蔦屋《つたや》の坊《ぼん》ちの色男の真三郎さんは、あなたですか」
「はい」
「人を憎むことをやめて、人を愛しましょうよ」
「はい」
「そんなに、しゃちょこばらないで、こっちへいらっしゃいよ」
「はい」
「わたしも淋《さび》しいんです、秋の夜長でしょう、小町塚でしょう」
「はい」
「卒都婆小町、関寺小町はあんまり寂しいねえ」
「はい」
「少しは察して頂戴な――お前さんのような優男をお伽《とぎ》にして、このながながし夜を一人ならず明かしてみたい、弁慶と小町は馬鹿だと言いました」
「はい」
「まあ、可愛らしいこと、身じまいを直しているところが何という頼もしいんでしょう、そうして身なりをきちんとし、髪を取上げたところは、どう見ても水の垂れる色男――お豊さんとやらが惚《ほ》れるも無理はない」
「はい」
「お豊さんのためには死んで上げたけれども、わたしのためにはどうして下さるの」
「…………」
「そんなに、もじもじしないで、こっちへお入りなさい、誰も取って食おうとは言いませんよ」
「…………」
「そんな気の弱い、それは意気地無しというものです、女が許してお伽を命ずるのに、それを聞かない男がありますか」
「…………」
「どうしたのです、その突っころばしは、あんまり骨がないので歯が痒《かゆ》い」
焦《じ》れ立ったお銀様は、もう経机の前に経かたびらを装うて、算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》を弄《ろう》している女易者の自分でな
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