れたのではありません。夢の中なる夢路かなという、人生そのもののうつしのような暗示が、お銀様の枕の上で続いているのです。
 動揺した湖面が平らかになって、三井寺の鐘がゴーンと鳴り響いたことに於て一幕の終りとなったかと言うに、さにあらず、静まり返った湖面の風景は暗転にもならず、引返しにもならないで、そっくりいっぱいの大道具のままに運転をしておりましたのですが、腥《なまぐさ》い風がドコからともなく吹き渡って来て、お銀様の身辺にせまると同時に、湖面湖上いっぱいに黒雲が立ち塞《ふさ》がったものですから、こんなところに長居は無用と、お銀様はそぞろ湖岸を立ち去ろうとすると、突然、湖面の一端が破れて、その穴から、河童《かっぱ》でもあるような、勢いとしては脱兎の如く、浮び出たが早いかかけめぐって、早くもお銀様の行手に立ち塞がったものがあります。
「誰だえ」
「今の、あのわたしでございます」
「おや、お前は、さきほど身の上判断を頼みに来た真三郎さんとやらではないか、お連れのお豊さんはどうしました」
「そのことでございます、あれほどしっかり結びついたものが、とうとう離れてしまいました」
「これはこれは」
「お豊が離れて生きて返ったのか、わたしよりも一層深い底に沈んでしまったのか、それがわかりませぬ」
「やれやれ」
「お豊の行方をつきとめていただきとうございます、そう致しませんと、わたしは死んでも死にきれませぬ」
「それは、わたしの知ったことじゃありません」
 この時、お銀様が厳然として言いました。
「そうおっしゃられると、とりつく島はござりませぬ」
「それも、わたしの知ったことではない、お前さんたちは、あれほど固く結びついていながら、いまさら片方《かたかた》の行方を人に問うなどとは、あんまり虫がよすぎる」
「でも、湖の深い底へ二人が沈んで行きますると、お豊が離れたのです、離れたがったのは本人の意志ではなく、誰か上の方で、あの女の後ろ髪をしきりに引くものがあるので、それでお豊がわたしから離れてしまいました」
「誰が、心中者の後ろ髪なんぞ引くもんですか」
「誰彼と申しましょう、あなた様のほかにはその人がございません」
「何を言います、ではお前さんは、お豊さんとやらの後ろ髪を引いて、この世に引戻したのは、わたしの仕業だとおっしゃるのですか」
「あなたでなくして、ほかに誰がおりましょう」
「ようござんす、では、わたしがそのお節介役《せっかいやく》を引受けたとしましょう、お前さんだけを死なして、あの女子《おなご》を引戻したのがわたしだとしたら、お前さんはどうします」
「恨みます、七生までも」
「恨んで、どうなさいます」
「あなたの身の上にとりついて、一生のうちに必ず、あなたを亡ぼしてお目にかけます」
「おやおや、たいへんな執念ですね、一生のうちに、わたしを亡ぼすとおっしゃるが、一生の後に亡びない生命がどこにありますか」
「いいえ、亡ぼすにもただは亡ぼしませぬ、こうだと思い知らせて上げるだけの亡ぼし方で、亡ぼします」
「なお大変なことになりましたねえ、長い目で見ておりましょう」
「見ておいでなさい、そうら、竜神の森が焼けました、あそこに斬られているのは、ありゃ誰だと思召《おぼしめ》しますか」
「そんなことを、わたしが知るものですか」
「金蔵なんです、金蔵の奴、わたしの恨みで死にました」
「ははあ、では、少し見当違いになりましたね、最初のもくろみでは、わたしの身の上にとりついてやるとおっしゃったようですが、いつのまにか金蔵さんとやらの方へ振替わりましたね、お門違いじゃないかね」
「違いはありません。それから、もっと恨みなのは机竜之助という奴なんです、あれがお豊を自由にしてしまいました、お聞きの通りお豊は、わたしのために死ぬんじゃない、わたしを殺して死ぬんだと、あの時にうわごとのようなことを言いましたが、今ぞ思い当るところがお有りでございましょう、真三郎のために死んでくれたというのは嘘でした、あの人は竜之助の奴のために自由にされたのです、あの男のために死にました、あの男のために死んでやりました、恨みです」
「その机竜之助とやらいう男ならば、かまわないから、うんと取りついておやりなさい」
 お銀様から冷然として言い放されると、水死人は躍起となって、
「それを言われると、わたしの五体が裂けます、お豊もお豊です、わたしを水の底へ追い込んで置いて、自分は立戻って好きな男と勝手な真似《まね》をした女――ですから、あれの末期《まつご》をごらんなさい、鳥は古巣へ帰れども、往きて帰らぬ死出の旅――おっつけ、わたしのあとを追って地獄へ来るあの女の面《かお》が見てやりたい。いいえ、こちらへ来たら、また私は可愛がってやります。お豊、おいで、わたしはお前を憎めない」
「おやおや、たいそう
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