く、深々と旅寝の夜具に埋もれて所在のない寝姿を、われと我が身に輾転してみるお銀様でありました。
 お銀様から迫られた色男の真三郎は、もじもじして一方に固まっていたが、急にふるえ上って、
「もし……念のために伺いますが、ここはあの吉田御殿とやらではございませぬかいのう」
「何を言っているのです、吉田がどうしました、御殿がどうしました、近江の国は長等山《ながらやま》の麓《ふもと》、長安寺の境内《けいだい》、小町塚の庵《いおり》がここなんですよ」
 それが耳に入らないと見えて、真三郎は立ち上って、
「そうして、あなた様は、その吉田御殿におすまいになる千姫様ではござりますまいか、もしや……」
「まだ何か言っている、千姫がどうしたというのですよ」
 お銀様自身が荒っぽく寝返りを打ったのは、身体《からだ》が熱く溶け出して来たようで、どうにもたまらなくなったからです。
「講釈に承りますると、参州の吉田御殿というお城の上の高い櫓《やぐら》から、千姫様が東海道を通る男という男をごらんになって、お気が向いた男はみんな召上げてお伽《とぎ》になさるということでござんす」
「そんな話もありましたね、そういう事実も、まるっきり跡形なしのことではありますまいよ」
「わたしも、実はあの時、千姫様のお目にとまった一人なんでございまして」
「おやおや、それはお安くない、千姫様のお目に留まって、さだめて、たんまりと可愛がられたことであろうのう」
「御免下さい」
「逃げるのですか」
「怖《こわ》くなりました」
「意気地なし、幽霊のくせに、人間を怖がって逃げる奴があるものですか」
「でも、怖くなりましたから、これで御免を蒙《こうむ》ります」
「逃げるとは卑怯です、逃がしません」
「お豊に申しわけがない」
「何を言っているの、お豊はお前に反《そむ》いた女じゃないか」
「でも、お豊に済みません」
「済むも済まないもあったことじゃない、お前のようないい男は、女に弄《もてあそ》ばれなければならない運命に置かれてあるのですよ」
「なぶり殺しでございますか、もうたくさんでございます、吉田御殿の裏井戸には、千姫様に弄ばれた男の骸骨でいっぱいでございました、わたしは怖い」
「意気地なし」
「逃がして下さい」
「逃がさない」
「罪です」
「罪なんぞ知らない」
 かわいそうに、迷って出るにところを欠き、とりつくに人を欠いて、偶然にも暴女王の前へ出現したばっかりに、可憐《かれん》な色男は逆に取って押えられてしまいました。幽霊が人間の手につかまって、じたばたして悲鳴をあげる醜態、見られたものではありません。一方、傲然として圧服的にのしかかる女王様――閑寂なる秋の夜が、人間性の争闘の血みどろな戦場に変りつつある。あまりの騒々しさに、
「大分お騒がしいことですね、もう夜が明けますよ」
 衝立《ついたて》の後ろから、ぬっと面《おもて》を現わして、にたにたと笑っているのは、しょうづかの婆《ばば》に紛らわしいあの晩年の小野の小町の成れの果ての木像の精が、生きて抜け出して物を言っているのです。

         十六

 お銀様も小町にこうして出られてみると、さすがに面はゆいものがある、大いにテレて力が弛《ゆる》む隙を、得たりと振りもぎって前にのがれようとしたが、真三郎が何に怖れたか、急に方向を転じて、後ろへ逃げて、かえってお銀様の夜具の裾へ隠れるという窮態になってしまいました。
「あんまり弱い者いじめをしないがいいぜ、ことに女が男を脅迫するなんぞは、見て見いい図ではないぜ」
 衝立の後ろから半身を現わして、二度目にこう言ったのは関寺小町ではなくて、顔色の蒼白《そうはく》な、月代《さかやき》の長い机竜之助でありました。小町に向っては悪いところを見られたとテレきったお銀様も、竜之助に対しては少しも引け目を感じません。
「あんまりいい図でないところを見せて、お気の毒さま、あなたこそ、いったい何だって、こんなバツの悪いところへ出しゃばるのですか」
「琵琶湖の舟遊びに行った帰り途、つい何だかここが物騒がしいから、のぞいて見る気になったのだよ」
 竜之助も人を食った返答なのですが、お銀様はやっぱり逆襲的に、
「人のことを気に病むより、自分の脚下《あしもと》にお気をつけなさい、いったい、あなたは誰とどこへ行っていたのです」
「そう来るだろうと思っていた、どうもつい遊び過ぎて申しわけがない」
 竜之助が人を食った調子で、わびごとのような言葉で頭をかくと、不意にその足許から、
「わあっ」
と泣き伏した者があります。お銀様もちょっとこれには驚かされたが、すぐに冷静を取戻して、
「お雪さんだね、泣かなくてもいいでしょう」
「お嬢様、御免下さいませ、先生を連れ出したのは、わたくしでございます」
「そうさ、小娘と小袋は油断が
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