ようとして、それを得させまいがために、自ら苦心、焦慮、憤慨しているのである。
もし、こういう論理を許すとすれば、自分の王国主義を、甘んじて虚無主義に屈服せしむる結果となる、それでは絶滅の使徒、虚無の盲人に笑われるばかりだ。生の哲学から、死の哲学に降服を余儀なくされるばかりだ。
彼女は、ここに働く人間共の表裏を見せつけられる。人間は働きたいが本能でなく、なまけたいのが本能だ。生をぬすまんがために、表面追従するだけで、生の拡大と鞏固《きょうこ》とを欣求《ごんぐ》するような英雄は一人も来やしない。彼等の蔭口を聞いていると、この王国を愚弄《ぐろう》し、わが暴女王の甘きにタカるあぶら虫のような奴等ばかりだ。こんな連中に世話を焼いてやるべきものではない。残らず叩き出して出直させるに越したことはない! とさえ、この女王を思い迫らせる。
王国の門を鎖《とざ》し、垣を高くして、いま来ている奴等を残らず叩き出して、新たに出直さす――と言ったところで、彼等をどこへ、どう叩き出して、どこから出直させる。所詮、母の胎内へ押戻して、再び産み直させるよりほかに道はない。
お銀様は、この深い憤りを抑《おさ》えて、御殿の一間から琵琶の湖前をながめている。
憤っているのは、お銀様ばかりではない。道庵というような出しゃばり者を別にしては、誰も彼もが、みんな憤っている――ように見える。およそ今の時勢に、笑ってなんぞいられる奴はない。
お銀様が、これを深く憤っている時に、城下――御殿下とか、屋敷下とかいうよりは、ここからは城下といった方がふさわしい、胆吹御殿の城下がにわかに物騒がしくなりました。春照、弥高の里で、早鐘が鳴り出しました。
『一揆《いっき》が来るぞ!』
『百姓一揆が押して来たアー』
どこからともなく響く号叫」
[#ここで字下げ終わり]
これが大菩薩峠第十八巻「農奴の巻」の終りの一章でありました。
お銀様はこの一室に納まって見ると、かなり閑雅で、小町の名を冒《おか》して恥かしからぬ古色もあるにはあります。床の間には掛軸があって、長押《なげし》には額面がある。書架があり、経机があって、一通りの調度がととのっている。茶の間には茶道具一式があり、行燈《あんどん》もあり、火鉢もある。お銀様が来ても、そこへ坐りさえすれば、あとはもう召使を呼ぶだけになっている。これはあながちこの女王様を迎えんがために、調度を急いだというわけではなく、前住者がついこの間まで居抜いたものを、そっくり置き据《す》えただけのものであります。
床の間の掛軸の、懐紙風《かいしふう》に認《したた》められた和歌の一首――
[#ここから2字下げ]
花のいろは
うつりにけりな
いたつらに
わか身世にふる
なかめせしまに
[#ここで字下げ終わり]
ここにあるべくしてある文字で、かえって当然過ぎる嫌いはあるが、さりとて、侮るべき筆蹟ではない。筆札《ひっさつ》に志あるお銀様が見ても、心憎いほどの筆づかいであったのは、それは名家の筆蹟を憎むのではない、どうやらこの文字の主《ぬし》が、やっぱり女であると思われることから、お銀様の心を幾分いらだたしめました。
「わたしにも、このくらいに書けるか知ら」
書いた主は何人《なんぴと》だかわからないが、女の筆のあとと見込んだばっかりに、お銀様が嫉妬心を起したのも、この人としては珍しくありません。ことに行成《こうぜい》を品隲《ひんしつ》し、世尊寺をあげつらうほどの娘ですから、女にしてこれだけの文字が書けるということ、そのことにある嫉《ねた》みを感じ、同時に自分もこのくらいに書けるか知らと僻《ひが》んでみたまでなのです。床の間の傍らに、仏壇とも袋戸棚ともつかない一間があって、そこに一体の古びきった彫刻が控えているということは、この室へ入った最初の印象で受取りきっていましたから、今更どうのというわけではありませんが、あれが小町の本当の姿か知らんとお銀様は、その瞬間に感じていたのです。
その彫刻は二尺ばかりの木彫の坐像で、一見しょうづかの婆《ばば》とも見える姿をした女性が立膝を構えている。おどろにかぶった白髪と、人を呑みそうな険悪な人相と、露《あら》わにした胸に並んで見える肋骨の併列と、布子《ぬのこ》ともかたびら[#「かたびら」に傍点]ともつかない広袖の一枚を打ちかけた姿と言い、誰が見ても三途《さんず》の川に頑張って、亡者の着物を剥《は》ぐお婆さんとしか見えないのでありますが、辛うじてそれがしょうづかの婆さんでないことから救われているのは、片手には筆を持って、垂直に穂先を下に向けた一方の手は薄い板っぺらのような物を持添えて立膝の上に置いてある。その薄っぺらな板のようなものが短冊《たんざく》というものであることを認めることによって、このお
前へ
次へ
全89ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング