か、一杯頂戴――」
関守氏は柄杓《ひしゃく》を取って、うがいをして、呑みたくもない水をグッと一口試みてから、
「で、走餅というのは、もうこの辺にございませんか」
「ええ、もう、代《だい》が変りやはりまして」
「そうですか、どうも有難う、お手数をかけました。犬の子が盛んに蕃殖をいたしつつありますな」
「はい」
「いったい、今はどなたの御所有に帰しているのですか、この御別荘と、それからこの井戸は」
「寒雪先生の御別荘になっていやはります」
「寒雪先生とおっしゃるのは、あの樫本寒雪先生《かしもとかんせつせんせい》のことですか」
「はい、左様でござります」
「そうでしたか、寒雪先生、東海道名代の名物を自分の垣根に取込んでしまうなどは心憎い。そうして先生は、時々これへおいでになりますかな」
「はい、月に一度ぐらいはお見えなさりやす」
「絵を描きにおいでになるのですか、ただ休養にだけいらっしゃるのですか」
不破の関守氏が、よけいなことまで口に出して聞いてみたのは、樫本寒雪といえば当時、聞えたる有名の画家であって、絵の方に於ても一代の名家だが、貨殖も相当なもので、なかなかに豪奢《ごうしゃ》な生活を営んでいるということも聞き及んでいる。到るところに幾つもの別荘を構えていて、この別荘の如きは、ホンの小附《こづけ》の一つに過ぎまいと思われる。関守氏は走井のほかには、家の建前や庭のこしらえなどにはあまり心をひかれなかったものと見えて、そのまま辞して、早くも大谷風呂の前まで到着しました。
だらだら坂を少し上って行くと、門があり、植込がある。玄関へかかって、
「頼もう、旅のものでござるが、一風呂浴びさせていただきたい」
しばらくは返答もなかったが、ややあって、
「お越しやす」
ようよう現われたのは、やはり女で、しかも今度のは丸髷《まるまげ》のすごいような大年増、玄関に現われるや否や、不破の関守氏と面《かお》を合わせて、
「あら――関守の先生でいらっしゃるわ」
「やあ、これはこれはお宮さん、珍しいところでお目にかかりましたな」
不破の関守氏が、熱海海岸の場の貫一さんのような発言をして、さすがの策士も、ちょっと度胆《どぎも》を抜かれたようでしたが、先方も相当、心臓を動揺させたと見えて、
「どうしてまあ、関守の先生、いつごろ、こんなところへ――何はともあれお上りやして……」
十二分の面見知《かおみし》りであるらしい相手で、すっかり納まり込んだ関守氏は、玄関に腰うちかけていい気持で草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解く。
それにしても、今日は関守氏、ことのほか艶福の日と見えて、走井の水をたずねた時は花売りの乙女――寒雪画伯の別荘で名所を見せてくれたのが極めて尋常ながら、これも年に於ては不足のない妙齢の処女、こんどこのところへ来て見ると、現われたお宮さんがすごいような丸髷の大年増ときている。しかも、それも双方相当の前知ということであってみると、穏かでない。だがしかしここに現われたお宮さんは、富山家《とみやまけ》の令夫人としては少々凄味が勝ち過ぎているし、ここを訪うて来た関守氏は、貫一君としては少し白髪が有り過ぎる。まずまあ、これも安心して置いてよろしい。
十一
長安寺の小町塚の庵《いおり》に残されたお銀様は、決して、しかく緩慢にして悠長なものではありません。お銀様は憤《いきどお》っている、いかにして何物を憤っているかということは、前巻の終りに次のように記されてあったはずです。
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「胆吹の御殿ではお銀様が憤っている。
お銀様は絶えず憤っている人である。その人が、憤りの上にまた一つの憤りを加えた。
何を憤っている。
お雪ちゃんという子が、恩を忘れて裏切りの冒涜《ぼうとく》の行動をしている、それを憤っているのか。そうではない。
竜之助という男が、無制限の放縦と、貪婪《どんらん》と、虚無に盲進する、それを憤っているのか。そうでもない。そんなことはこの暴女王にとっては、憤慨ではなくて、むしろ興味である。
そもそも、この暴女王が今日に及んで、かくも深く憤りを発しているという所以《ゆえん》のものは、己《おの》れの夢想する王国が、土台からグラつき出したから、それを見せつけられるがために憤っているのに相違ない。
人間というやつは度し難いものだ、人間というやつは救うよりは殺した方が慈悲だ、とさえ、ややもすれば観念せしめられることの由を如何《いかん》ともし難い。
ナゼならば、彼女は己れの強力を傾注して、有象無象をよく生かしてやらんがために事を企てているが、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴はない! いや、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴がないのではない、およそ生きんことを欲する人間にロクな奴がない! という断案を得
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