れません。湖辺湖岸は、御承知の通り物騒で、宿々の旅籠《はたご》がかえって体よく客を追い立てるという際ですから、鄭重な客には湖上への避難をおすすめ申してはおるようなものの、それとても限度がござります、長期ならば長期のように、心構えをしてお待ち申すだけのことですが、長期と申しましても、先は見えているのですから」
 そのことの報告を兼ねて、お銀様に長期応戦の秘策を授け、自分は身軽く立って、その裏山から尾蔵寺《びぞうじ》の歓喜天へ出て、それから長等神社《ながらじんじゃ》の境内《けいだい》を抜けて小関《おぜき》越えにかかりましたのです。
 小関はすなわち逢坂《おうさか》の関の裏道であって、本道は名にし負う東海道の要衝であるにかかわらず、この裏道には、なお平安朝の名残《なご》りをとどめて、どうかすると、深山幽谷に入るのではないかと疑われたり、義朝《よしとも》一行が落武者となって、その辺から現われて来るのではないかと疑われるような気分にもなります。
 不破の関守氏は、笠も軽くこの小関越えをなしながら、きこりやまがつに逢うと、おさだまりのように、
「この道を真直ぐに行くと山科《やましな》へ出ることに間違いはありますまいな。時に、この道中には目洗い地蔵というのはございませんか」
 そういうような発問をして、道を誤らずに山科街道まで出てしまいました。
「奴茶屋《やっこぢゃや》はドコになりますか、柳緑花紅の札の辻はどちらですか」
 この質問はナンセンスでした。不破の関守氏らしくもない愚問で、二つの異なった方向を同時に質問したのですから、いわば碁を打つにあたって一度に二石を下ろしたようなもので、徒《いたず》らに相手方を当惑せしむるに過ぎません。それでも、奴茶屋は右へ進み、追分の札の辻へは左へ小戻りをしなければならないことを教えられて、暫く立ちどまって首を傾けていたが、暫くして、次なる旅の人をつかまえ、
「山科の光悦屋敷というのはまだ遠いですか。では大谷の風呂の方は……この地点から、まずどちらへ行くのが順で、どちらへ行くのが近いですか。ああ、そうですか、左様でございましたか、しからば、その大谷風呂の方から先に……何とおっしゃる、そのあいだに有名な走井《はしりい》の泉があって、走餅を売っておりますから御賞翫《ごしょうがん》くださいですって、よろしい、いただきましょう。では、そういうことに」
 途中での道案内を、そのまま素直に受けて、不破の関守氏は街道を小戻りをして、大谷風呂というのを目ざして進んで行きました。
 その間《かん》、東海道に名の高い走井の水、それを飲み、同時に名物の走餅、それを味わう気になって関守氏は、そのあとをたずねてみると、教えられたところあたりに乙女の花売りが一人いる、それに向ってたずねてみると、
「走井の井戸は、この石垣のうちにあるのでおますが、ごらんの通り、今ではもう人様の御別荘に買われてしもうたから、旅の方も気儘《きまま》に見るというわけには参りまへんのや」
「はは、公有の名物が、私人の所有に帰してしまったのですか」
 関守氏は、強《し》いて走井の泉を見なければならぬ使命というほどのものを感じていない、盛名の妓《ぎ》がいつかは知らずしかるべき旦那に身受けをされて、囲われたような気分がして、
「では、割愛しましょう」
 野山の花が名門の苑《その》に移し植えられたからといって、その花にいささかも関心のない者が、あえてさのみ執着を持つべきではない。不破の関守氏はあっさりと、走井見物を思いあきらめて、大谷風呂に向って進もうとすると、花売りの方でかえって残り惜しげに、
「でも、何なら、御別荘にはお留守がいらっしゃいますによって、たずねてごろうじませ、手軽う見せて下さるのやろうと存じますさかい」
「そうですか、たとえ個人の所有に帰したとはいえ、手軽に見せてもらえるならば、見せてもらった方が、見せてもらわないよりはよろしい、ひとつ門を叩いてみましょうかな」
 不破の関守氏も、つい、その気になって、小戻りをして、走井の別荘の門をおとのうてみる。犬が吠《ほ》える、同時に小門の下から夥《おびただ》しい小犬が走り出して来て、関守氏の足もとにまつわる、同時に、中では吠える親犬をしまい込む家人のあわただしい物音が聞えたが、やがて門が内から開かれて、
「お越しやす」
 極めて尋常な女中が一人、現われました。
「有名な走井の水というのは、あなたのお家にあるのですか、旅の者ですが、一見させていただきたい」
「おやすいことでおます、どうぞ、こちらへお入りやして」
 女中に導かれるまでもなく、門からつい一足の右手は、花崗石の高さ三尺、径四尺ぐらいの井筒《いづつ》があって「走井」と彫ってある、そこから滾々《こんこん》と水を吹き上げている。
「ははあ、これが走井の水です
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