を寝かしたり起したりするくらいのことはやり兼ねないから、伊太夫の富といえども必ずしも気は許せない。しかし、いいことにはみな善人です。不破の関守氏は野心家なりといえども、本来、野心そのものを楽しむ、これも一種の芸術家であって、破壊と復讐とを念とする革命家ではないから、この点は充分の御安心を願っておいてよろしいのです。
とにかくに、この早手は翌日の夕方、無事に大津の石浜に着くと同時に、早くも宵闇《よいやみ》にまぎれて、町のいずれかに姿を消してしまいました。
大津の町といえども、伊太夫でさえ騒々しさを避けるくらいの時代でしたから、空気がなんとなく動揺している間へ、こっそりと上陸したこの一行は、別段、出迎えるものもなく、目ざされる憂いもなく、ほんとうに尋常な気分で着いて、尋常な気分で散じてしまったのは、一つは不破の関守氏の用意のほどもあることでしょう。
かくて不破の関守氏は、お銀様を、本陣へも、脇本陣へも、自分もろともに送り込むことをせずに、いつ、何によって、ドコへついたという形跡もないようにして、その翌日になるとお銀様は、もう長安寺山の牛塚の上、小町の庵《いおり》へ、十年住み慣れたもののように納まっておりました。
昨夜、お銀様をここに納めて置いてからの不破の関守氏は、胆吹から率いて来た一僕を召しつれて、忽《たちま》ち市中郊外のいずれへか姿を消してしまいました。
ここにお銀様の当座の庵は、関寺小町《せきでらこまち》の遺跡だということですが、それは確《しか》とした考証があるわけではありません、小町の晩年が、関寺にロマンスを残すのは、小町らしい時とところとを得たものであるが、史実としては、どの辺まで真実か、それはわからないが、小町と関寺とは切っても切れない余生の道場として残されているから、しかるべきところへ、しかるべき土を盛りさえすれば、それが小町塚になり、しかるべきところへ、しかるべき庵を結びさえすれば、小町庵となるべきものです。お銀様がいま納まった庵も、小町をいただくにふさわしい形勝の地でないということはありません。
形勝というよりも、第一、便利なことです。土地柄が町とは離れているが、街道とはさのみ遠くはない。高観音《たかかんのん》の右に当って、当然、地は長良山《ながらやま》の一角で高層を成しているだけに、市中並びに人馬の喧噪からは相当隔離されているし、そうかといって、煙塵を絶ち、米塩に事を欠くほどに浮世離れはしていないのですから、かりそめの閑者を扱うためには甚だ便利がよいのです。それに加うるに、婆やが一人いて、留守番を兼ねて、身の廻りのことは何でもしてくれる、そういう好都合を、あらかじめ抜かりなく打合わせて、女王様の我儘《わがまま》が妨げられない生活が、来着同時に実現されることになったのは、単に不破の関守氏の働きというのみではなく、およそ湖上湖辺のことに関する限りに於て、ドノ辺の淵《ふち》にカムルチが棲《す》み、どの辺の山路にはムラダチが生えているということをまで心得ている、かの知善院寄留の青嵐居士のよそながらの斡旋《あっせん》が、大きに与《あずか》って力あるのでないかと思われることです。すなわち、青嵐居士の添書《てんしょ》で、居士の知人であるところの、この長安寺の住職へあらかじめ諒解が届いていたものですから、万事が極めて素直に運んでいるのだろうと思われることです。
青嵐居士といえば、あれから早くも、胆吹王国のオブザアバーとなって、今では自分から興味をもって、あの上平館《かみひらやかた》の留守師団長をつとめているのです。あれだけの人物を留守師団長として留め得たればこそ、女王様も、参謀総長も、かく安心して、悠々乎たる、自適然たる旅――というよりも外出の程度なのですが、それができるというものでしょう。事実、留守師団長というよりは、この人の存在は、胆吹王国の女王代理、臨時総理の役目をまで兼務しているのでありました。
十
お銀様を小町塚の庵《いおり》に安定せしめて置いた不破の関守氏は、その夜は引返し大津の本陣の、つまり伊太夫の宿についたようでしたが、翌早朝には、例の一僕を召しつれて、旅装かいがいしく本陣を立ち出でました。
出がけに、程遠からぬ小町塚の庵へ立寄った不破の関守氏は、縁に腰をかけて、敷居越しにお銀様に向って話しかける様は、
「あいにくのことで、行違いとなりました、御尊父は船で竹生島詣でにおいでになった、そのあとへ我々は乗込んだという次第です。しかし、ホンの外出の程度ですから、直ぐに戻っておいでになる……といっても、今日明日というわけには参りますまい、単純な竹生島見物だけですと、日帰りにもやってやれないことはないですが、なんにしても避難の意味を兼ねての船出なんですから、存外、日数を要するかも知
前へ
次へ
全89ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング