婆さんが亡者の衣服を剥ぐことを商売とする人でなく、短冊に対して優にやさしい水茎のあとを走らせることを知る風流の心を持ち得る人種であるということがわかるだけのものです。
 しかし、それほどに、小町というものの通俗にうたわれた容姿風采とは趣を異にしているけれども、彫刻そのものが凡作でない証拠には、この年になっても、どこやらに人に迫るものがある。古《いにし》えは美で人を悩殺したが、今は鬼気を以て人を襲うという凄味があるのは、小町その人の生霊《いきりょう》が籠《こも》るというよりも、彫刻師その人の非凡がさせる業に相違ない。眼の高いお銀様は、早くもこの彫刻の非凡さを見て取って、しかしてこれが小町であることに大なる共鳴を感じました。美人としての小町なんぞは語るに足らない、鬼女としての小町、小町としての本性格は、これでなければならないと、お銀様は入室の最初からその木像を愛しました。
 ただ、気に入らないのは、床の間の一方に、算木《さんぎ》や、筮竹《ぜいちく》や、天眼鏡《てんがんきょう》といったようなものが置き散らされてあることで、これとても、この室の調子を破るというほどではないが、算木とか筮竹とかいうようなものが、お銀様は嫌いなのです。人間の運命を、人間以外の者に向って伺いを立てるというような不見識が、お銀様の常日頃からのお気に召さないのです。
 ようやく、机によって、間近な書架から書を取って検閲をはじめました。読む気ではない、検閲をしてやるつもりなのです。つまり、今までの前住者が、どれほどの教養があった人か、少なくとも、あの木像を守り、あの歌をかけて置くほどのものが、キングや文芸春秋ばかり読んでもおられまい。古えの小町の名を辱《はずか》しめぬぐらいの読書はあってよかりそうなもの、なくてはならぬはずのものと、お銀様は、前住者の器量を見抜くつもりで、書架の書を取って見ると、第一に手に触れた「三世相」――部厚に於ては群を抜いているけれども、これがお銀様の軽蔑を買うには充分の代物《しろもの》でありました。取って投げ出すように「三世相」を下に置いて、次の大判の唐本仕立てなるを取って見ると「周易経伝《しゅうえきけいでん》」――
 お銀様は「三世相」の余憤を以て、そこにも若干の軽蔑を施しつつ、でも、これは一概に投げ出すようなことをせずして、不承不承に丁《ちょう》を繰りながら読み下してみました。
[#ここから1字下げ]
「乾 元亨利貞 初九潜竜勿用 九二見竜在田 利見大人」
[#ここで字下げ終わり]
 何のことかさっぱりわからない。お銀様の学力を以てすれば、文字だけを読み砕くには何の不足もないが、こればかりは文字あるところに直ちに意味が附着して来るのではない。お銀様は何かしら憤りをこらえて、なお読み進んで行くと、
[#ここから1字下げ]
「九三君子終日乾乾夕※[#「りっしんべん+易」、第3水準1−84−53]若※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]无咎 九四或躍在淵无咎九五飛竜在天利見大人」
[#ここで字下げ終わり]
 いよいよ読み進んで、いよいよ何のことかわからなくなる。
 お銀様は憤りました。

         十二

 易《えき》を読んで、お銀様が腹を立つ、それは立つ方のお銀様が無理です。孔夫子でさえも、五十初めて学ぶという易を、女王様風情で物にしようというのが大ベラボウのもとなんですが、傲慢《ごうまん》と、呪詛《じゅそ》と、増長で持ちきっているこの女には、その分別がつかないのです。
 事実、わかるわからないは別として、現在お銀様には歯が立たないのです。立たないのがあたりまえなのですが、それをそうと素直に受けることのできないことが、この女の持つ重大なる不幸でもあり、生存の根拠でもありましたのです。同時に、この女王はこの書物を征服しなければならないという憤りを発しました。この人は早くから世をすねている、人に面《かお》を合わせることを憎んでいる生活が内面に向って、書を読むことは読みました。おそらく、お銀様ほどの年頃で、お銀様ぐらいの読書家はなく、そうしてその読書の範囲に於ては、曲りなりにも自分の見識の立たなかった書物というものは、まず今までになかったのです。四書五経の如きも一度は目を通したことがあるに相違ないのですが、今日ここで単独につきつけられてみると、ほとんど歯が立たない、というよりも、手も足も出ないのです。文字そのものが異った国の文字であるならばとにかく、文字そのものだけは、立派に読みこなすことができて、意味らしいものが、どうにもこうにも掴《つか》めないことをお銀様は憤激しました。
 この憤激がお銀様を、無二無三に易伝の中へ突入させましたけれども、いよいよ進んで、いよいよ相手にされない。相手にされないだけならまだしも、相手を征服できないこと
前へ 次へ
全89ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング