どのがやかましくて(神尾|曰《いわ》く、なにばばあがやかましいものか、これで可愛がられるか)おれが面《かお》さえ見ると叱言《こごと》を言いおる故、おれも困って、しまいには兄嫁に話して知恵を借りたが、兄嫁も気の毒に思って、親父へ話してくれたが、そこである日親父がばばあどのへ言うには、小吉もだんだん年をとる故、小身者は煮焚《にた》きまで自分で出来ぬと身上をば持てぬものだから、以来は小吉が食物などは、当人へ自身にするようにさっしゃるがよいと言ってくれる故、なおなおおれがことはかまわず、毎日毎日自身に煮焚きをしたが、醤油には水を入れて置くやら、さまざまのことをするから、心もちが悪くてならなかった。よそより菓子何にてももらえば、おれには隠してくれずして、おれが着物は一つこしらえると、世間へ吹聴《ふいちょう》して、悪くばかり言い散らし、肝《きも》が煎《い》れてならなかった。祖父に言うとおればかり叱るし、こんな困ったことはなかった」
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五十六
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「十四の年、おれが思うには、男は何としても一生食われるから、上方あたりへ駈落《かけおち》をして一生いようと思って、五月二十八日に股引《ももひき》をはきてうちを出たが、世間の中は一向知らず、金も七八両盗み出して、腹に巻き附けて、まず品川まで道を聞き聞きして来たが、なんだか心細かった。それからむやみに歩いて、その日には藤沢へ泊ったが、翌朝早く起きて宿を出たが、どうしたらよかろうとぶらぶら行くと、町人の二人連れの男があとから来て、おれにドコへ行くと聞くから、当てはないが上方へ行くと言ったら、わしも上方まで行くから一所に行けと言いおった故、おれも力を得て、一所に行って小田原へ泊った。その時あしたは関所だが手形は持っているかと言う故、そんなものは知らぬと言ったら、銭を三百文出せ、手形は宿でもらってやると言うから、そいつが言う通りにして関所も越えたが、油断はしなかったが、浜松へとまった時は、二人が道々よく世話してくれたから、少し心がゆるんで、裸で寝たがその晩に、着物も、大小も、腹にくくしつけた金も、みんな取られた。朝眼がさめた故、枕元を見たらなんにもないから肝がつぶれた。宿屋の亭主に聞いたら、二人は尾張の津島祭に間に合わないから先へ行くからあとより来いと言って立ちおったと言うから、おれも途方にくれて泣いていたら、亭主が言うには、それは道中の胡麻《ごま》の蠅というものだ、わたしは江戸からのお連れと思ったが、なんしろ気の毒なことだ、ドコを志して行かしゃるとて真実に世話をしてくれたが、言うには、ドコという当てはないが上方へ行くのだと言ったら、なんしろ襦袢《じゅばん》ばかりにては仕方がない、どうしたらよかろうととほうにくれたが、亭主がひしゃく[#「ひしゃく」に傍点]一本くれて、これまで江戸っ児がこの街道にては、ままそんなのがあるから、お前もこのひしゃく[#「ひしゃく」に傍点]を持って浜松の御城下在とも、一文ズツ貰《もら》って来いと教えたから、ようよう思い直して、一日方々もらって歩いたが、米や麦五升ばかりに、銭百二三十文もらって帰った。亭主はいいものにてその晩は泊めてくれた。翌日まず伊勢へ行って身の上を祈って来たがよかろうと言う故、貰った米と麦とを三升ばかりに銭五十文ほど亭主に礼心にやって、それから毎日毎日乞食をして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原または川原、或いは辻堂へ寝たが、蚊にせめられてロクに寝ることもできず、つまらぬざまだっけ。
伊勢の相生の坂にて、同じ乞食に心やすくなり、そいつが言うには、竜太夫という御師《おし》のところへ行って、江戸品川宿の青物屋大阪屋のうちより抜参りに来たが、かくの次第ゆえ泊めてくれろと言うがいい、そうすると向うで帳面を繰りて見て泊めると教えてくれた故、竜太夫のうちへ行って、中の口にてその通りに言ったら、袴《はかま》など着たやつが出て来て、帳面を持って来て繰り返し繰り返し見おって、奥へ通れと言うから、こわごわ通ったら、六畳敷へおれを入れて、少したってその男が来て、湯へはいれと言うから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると粗末だが御膳を食えとて、いろいろうまい物を出したが、これも久しく食わないから、腹いっぱいやらかした。少し過ぎて竜太夫は狩衣《かりぎぬ》にて来おった。ようこそ御参詣なされたとて、明日は御ふだを上げましょうと言う故、おれはただはいはいと言って、おじぎばかりしていた。それから夜具かやなど出して、お休みなされと言うから寝たが、心持がよかった。翌日はまた御馳走をして御礼をくれた。そこでおれが思うには、とてものことに金を借りてやろうと、世話人へそのことを言ったが、先の取次をした男が出て来て、御用でござりますかと言うから、道
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