ふだん遊びに行く故に、いちいち世話をしてくれたが、うちへ帰るきがいがある故、頼んで送ってもらった。大きな目に逢った。その後は二月ばかり亀沢町は通らなんだが、同町の縫箔屋《ぬいはくや》の長というやつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にて叩きちらしてやったが、うちの中間《ちゅうげん》がようようとめて、長のうちへ連れて行って、はんの木馬場の仕返しの由をその野郎の親によく言ったとさ。それよりは亀沢町にて、おれに無礼をする者はなくなったよ。
柔術の稽古場で、みんながおれを憎がって、寒稽古の夜つぶしということをする日、師匠から許しが出て、出席の者が食い物をてんでんに持寄って食うが、おれも重箱へ饅頭《まんじゅう》を入れて行ったが、夜の九ツ時分になると、稽古を休み、皆々、持参のものを出して食うが、おれも旨《うま》いものを食ってやろうと思っていると、みんなが寄って、おれを帯にて縛って、天井へくくし上げおった、その下で残らず寄りおって、おれが饅頭まで食いおる故、上よりしたたかおれが小便をしてやったが、取りちらした食いものへ小便がはねおった故、残らず捨ててしまいおったが、その時はいいきびだと思ったよ。
十の年の夏、馬の稽古をはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の、六千石取る神保磯三郎という人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬が好きだから、毎日毎日門前乗りをしたが、二月目に遠乗りに行ったら、道で先生に逢って困ったゆえ横町へ逃げ込んだ、そうすると先生が、次の稽古に行ったら叱言《こごと》を言いおった、まだ鞍《くら》も据《すわ》らぬくせに、以来は固く遠乗りはよせと言いおった故、大久保勤次郎という先生へ行って、責め馬の弟子入りしたが、この師匠はいい先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろいろ教えてくれたよ。毎日五十鞍乗りをすべしとて、借馬引にそう言って、藤助、伝蔵、市五郎という奴の馬を借り、毎日毎日、馬にばかりかかっていたが、しまいには馬を買って藤助に預けて置いたが、火事には不断出た。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込みしが、今井帯刀という御使番にとがめられて一散に逃げたが、本所の津軽の前まで追いかけおった、馬が足が達者ゆえ、とうとう逃げ了《おお》せた。あとで聞けば、火事場は三町手前よりは火元へ行くものではないということだよ。
一度、隅田川へ乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗ったが、土手にて一散に追い散らしたが、どこのハズミか力皮が切れて、鐙《あぶみ》を片っぽ、川へ落した、そのまま片鐙で帰ったことがある。
十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門《うどのじんざえもん》という剣術の先生がある、御簾中様《ごれんじゅうさま》の御用人を勤め、忠也派一刀流にて銘人とて、友達がはなしおった故、門弟になったが、木刀の型ばかりを教えおる故、いいことに思ってせいを出しいたが、左右とかいう伝受をくれたよ。その稽古場へ、おれが頭《かしら》の石川右近将監の息子が通いしが、おれの高やなにかをよく知っている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だと言って笑いおるが不断の事ゆえ、おれも頭の息子ゆえ内輪にして置いたが、いろいろ馬鹿にしおる故、ある時木刀にて思うさま叩き散らし悪態をついて泣かしてやった。師匠にヒドク叱られた。今は石川太郎右衛門とて御徒頭《おかちがしら》をつとめているが、古狸にて今に何にもならぬ、女をみたような馬鹿野郎だ。
十二の年、兄貴が世話をして学問をはじめたが、林大学頭《はやしだいがくのかみ》のところへ連れて行きおったが、それより聖堂の寄宿部や、保木巳之吉と佐野郡衛門という肝煎《きもいり》のところへ行って、大学を教えてもらったが、学問は嫌い故、毎日毎日、桜の馬場へ垣根をくぐりて行って、馬ばかり乗っていた。大学五六枚も覚えしや、両人より断わりしゆえ嬉しかった」
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先生から見放されて、嬉しかったという奴もなかろう。こういう出来の悪い奴の子に、麟太郎のような学問好きが出来たのも不思議と、神尾が思って読みました。
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「馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくって困ったから、おふくろの小遣《こづかい》またはたくわえの金を盗んで使った。(そろそろ盗みがはじまったよと神尾がザマを見ろという面《かお》をする。)
兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断わりの手紙をやった、その上にておれをヒドク叱って、禁足をしろと言いおった、それから当分うちにいたが困ったよ。
十三の年の秋、兄が信州へ行ったからまたまた諸方へ出あるき、おれのばばあ
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