と、門の下にかかっている一方の表札は、
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「高台寺月心院」
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他の一方のは、まだ木の香も新しい表札で、
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「御陵衛士屯所」
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とありありと読める。これを山崎譲が指して、
「あれ見給え、あれが高台寺の月心院、伊東が牛耳をとって、御陵衛士隊の本部として固めているところだ」
「なるほど」
「あの菊桐の御紋章が物を言うのだ、あれにはさすがの近藤勇も歯が立たない」
「伊東の得意とするところだ――事ある毎に菊桐御紋章の提灯を持ち出すことが伊東の得意で、その提灯を見て切歯するのが近藤勇」
高台寺はそのまま過ぎて、なお同じ歩調で進んで行くと、ようやく一つの橋のたもとへ出ました。どこまで続くと思った町並の単調が、ようやく高台寺の提灯で破られると、今度は、橋にかかって来ました。橋は京都の名物の一つ、ただし、何という橋かその名はわからない。
木津橋とも読めれば、木屋橋と読めないこともない。また読みようによっては大津屋橋とも読めそうだ。その橋の南側のところが板囲いになっている。多分、近い幾日かの間に火事が起って、その焼跡だろうと思われる。
四十六
「向うから人が来るよ」
なるほど提灯をつけて橋を渡って、こちらへやって来るものがある。何者が来ようとも、遅疑するこちらではない。
しかし、相当の距離もあるとおもったそのうち、だんだん近よるに従って、その提灯の紋所がいよいよはっきりして来る。それを見ると、菊桐の御紋章です。
菊桐の御紋章は、たったいま山崎から説明を聞いたところのもの、さいぜん見たのは高張提灯、これは弓張のさげ提灯です。
二人連れで、いずれも両刀を帯びた壮士である。前のが提灯を持って先導し、うしろのが、少しほろ酔い機嫌で、微吟をしながら歩いて来るのです。
こちらの三人と、ぱったり行会った途端、山崎譲がまたしても、その御紋章の提灯をたずさえた先導の壮士に向って呼びかけました、
「おいおい、斎藤一《さいとうはじめ》ではないか」
「拙者は斎藤だが、そういう貴殿は誰だ」
「山崎だよ、山崎譲だよ」
「ああ、山崎か」
「斎藤、君はこんな夜中にドコへ行くんだ、しかも、もったいない御提灯などを提《さ》げこんで……」
「は、は、は、ドコへ行くものか、この御紋章の示す通りだ」
「高台寺の屯所《とんしょ》へ帰るのか」
「そうだ、そうだ」
「そうして、今頃まで、どこで何をしていた」
と山崎から推問されると、斎藤と呼ばれた壮士は、提灯を持ったまま橋の真中に踏みとどまり、
「七条の醒《さめ》ヶ井《い》の近藤勇のところへ招かれて行ったのだ」
「近藤のところへか――そうして、連れは誰だ」
連れはだれだと山崎から問いかけられて、思い出したように振返って見ると、もうその先導して来た一人は橋の上にいない。
「おや」
と思って見直すと、提灯持をそこに置きはなして、自分はもう前へ進んで、橋の詰の方へ酔歩蹣跚《すいほまんさん》として行く姿が見える。その主《ぬし》も酔っているが、提灯の斎藤も少なからず酔っている。同行のものを遣《や》り過ごしてしまっても、自分はまだいい気で橋上に踏みとどまって山崎と話し込んでいる。山崎もまた、いい気で問いをかけている。
「連れのあれは誰だ」
その後ろ影を見やって、斎藤にたずねると、斎藤が高く笑って、
「君も知ってるだろう、伊東だよ、伊東甲子太郎だよ」
「ははあ、あれが伊東だったか」
「今は、伊東は大将なんだぜ、御陵衛士隊長と出格して、新撰組の近藤と対立の勢いになったのだ」
「そうか、そうして君はいったい、どっちに属するのだ、新撰組か、御陵衛士隊か」
山崎から訊問《じんもん》のように言われて、斎藤は、
「拙者か――拙者はもとより新撰組、だが目下は、都合があって御陵衛士隊に寓《ぐう》している」
「二股者《ふたまたもの》――」
と山崎から一喝《いっかつ》されたが斎藤、なかなかひるまない。
「いいや、二股ではない、昨日は新撰組にいたが、今日は御陵組だ、昨日は昨日、今日は今日、朝《あした》には佐幕となり、夕《ゆうべ》には勤王となる、紛々たる軽薄、何の数うることを須《もち》いん――」
斎藤の語尾が吟声になったが、直ちに真面目に返って、山崎の耳に口を寄せると、
「近藤隊長の命で、御陵衛士隊へ間者に入ってるんだよ、僕が――伊東をはじめ高台寺の現状を、味方と見せて偵察し、巧みに近藤方に通知するのが拙者の任務だ」
「そうか」
山崎も納得したらしい。この斎藤というのは名を一《はじめ》と言い、藤堂平助と共に、江戸以来、近藤方の腹心であったが、今度は藤堂と相携えて御陵隊へ馳《は》せ加わってしまった。藤堂の方は新撰組に何か不平があってしたのだから、
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