ではないから、みようによっては、薄野原の無人境よりはいっそう荒涼たるものに見える。清少納言は、火のなき火鉢というものをすさまじきものの一つに数えたが、もともと人家のないところに人家がないのは荒涼とはいえ、そこにまた自然の趣もあるというものだが、人家があって人がいない光景は、かえってすさまじいものがあると見られる。それに、これも今となって気がついたものだが、いつのまにか、闇の空は破れて皎々《きょうきょう》たる月がかがやいていようというものである。そこで、死の沈黙のような町並がいっそう荒涼たるものに見える。そのくせ、人家は行けども行けども無数に櫛比していることであり、その数の夥《おびただ》しいこと無数無限といってもよい。その中を三人が、例の歩調を揃《そろ》えて、さっさと歩み入るのでありましたが、前途に蒲団《ふとん》を着て寝ているような山があって、その山の真中に大文字の火が燃えている。どうしたものか、その辺で、山崎の能弁がぱったりと止まって、三人は無言で、その月下無人の市街路を、さっさと進んで行くのであります。
路は早くも京洛の町並へ入っているのだ。当時の京都の夜はそれがあたりまえである。どんな勇者でも、京都の町を、深夜と言わず、宵《よい》のうちでさえも、独《ひと》り歩きなどをするものはないのだから、足は王城の下に入ったとはいえ、町は死の沈黙が当然なのであるにはあるが、それにしても、また一層のすさまじさで、歩調を揃えて行く三人の足どりが、どうも地についていない、いずれも宙に乗って走っているかと思われるくらいです。そのくらいだから、雲の飛ぶように、風の行くように、迅《はや》いことは迅いのだが、このまた町並というものも、どこまで行って、ドコで終るか知れないほど続けば続くものです。
彼等三人は、さっさっと風を切って進みましたが、しばらく行って、山崎譲がようやく沈黙を破って、
「さて――田楽ざしの四人の者の死骸が……」
その時に、道ばたの町並の町家の一角から人の声があって、きわめて低い声を発して、
「しばらく、しばらく、お控え下さい」
六尺棒を持って、両刀をたばさんだ足軽|体《てい》のが一人現われて、
「しっ! しばらく、お控え下さい、殺陣があります」
叱するが如く、警するが如く、低く、そうして力ある声。
ほかに通行の人はないのだから、その低声の警告は、まさしく、この三人の歩調の旅人のために発せられたものに相違ない。
それと聞いてみると、ともかくも一応は歩調を止めないわけにはゆかない。
竜之助と、新兵衛と、譲とは、ぴたりと路中のある地点に歩みをとどめて突立ちました。六尺棒の軽格がそれに向って、足音を重くして静かに近よって来る。
四十五
六尺棒を携えた軽格の士が、行手を遮《さえぎ》って、
「しばし、お控え下さい、この先で、たった今、凄愴《せいそう》たる殺陣が行われつつありますから……」
「ナニ、殺陣が」
「して、何者と何者とが相闘っておりますか」
田中と山崎の二人が、踏みとどまって反問すると軽格が、
「いや、だまってお控え下さい、近よるは危険千万だからおとどめ申すのだ」
「何を」
田中新兵衛がいきり立って進んだと見ると、やにわに一拳を振り上げて、したたかに軽格の眉間《みけん》をナグリつけました。
「うーん」
と言った軽格は、のけ反《ぞ》ったかと思うと、もう姿が見えません。
これはあまりに乱暴です。ではあるけれども、口よりも手の早い田中新兵衛ではやむを得ない。一拳の下に軽格を打ち倒して置いて、三人がまた歩調を同じうしてこの非常線を突破してしまいました。
行手に殺陣があろうと、剣山があろうと、そんなことで踏みとどまるこの三人でないことは、わかる人にはわかっているが、軽格にはわかっていなかったらしい。むしろ、そういうところへ好んで行きたがる人格であることを知らなかったのは、六尺棒の不運であったと見えるが、それにしても一拳の打擲《ちょうちゃく》だけで、声も姿も消滅してしまったのはどうしたものか。
かくて、三人が踏み破って行くと、背後から一隊の人がバラバラと走って来る物音、振返ってそれを見ると、月光かがやく抜身の槍をかざして、身を結束した壮士が四十余名――こなたを指して乗込んで来るのです。
「それ、来たぞ」
何が来たのだかわからないが、三人はそれを避けて通すと、すれすれに通行したが、鞘当《さやあ》てを演ずることもなく、しばらくすると、これも前の軽格と同様、音も姿も夜霧の中に消えてしまいます。
またしばらくすると、右手の小高いところに山門があって、そこばかりは特に明るい。見れば大きな高張提灯《たかはりぢょうちん》が門の両側に出ている。しかもそのいずれもの提灯が、菊桐の御紋章である。そうしてその光で見る
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