ぱなしの、隔てのないものの言いぶりで、豪傑肌こそ昔に変らないが、殺気などというものは微塵《みじん》もない、真に己《おの》れも淋しいことあって、友を呼ぶ魂のように聞えるから、竜之助も極めて安心をしつつ、その追いつくのを待っていると、ほどなく近づいた右の豪傑は、竜之助を見て莞爾《かんじ》として笑ったかと思うと、竜之助の腕をとって、親しみの態度を現わしました。竜之助も手をさしのべてさわってみたが、その手は荒いけれども、そのさわりは極めてつめたい。
「いやに冷たい手をしているな」
「は、は、は」
「どこへ行っての帰りだ、そうしてこれからどこへ行こうというのだ」
「美濃の関ヶ原から来たんだが、これからまた京都へ行くのだ、京都はどこという当てもないが、せっかく君と同行のことだ、君の行くところへ僕も行こうではないか」
 田中新兵衛は極めて親しみを以て、こう言いました。思えば自分も一人旅、逢坂山の関の清水を立ち出でて、足はこうして京洛の地に向いているけれども、さて、今度の都入り、誰を当てに、ドコへ落ちつこうという目的があるではないのだ。田中新兵衛から、こう持ちかけられてみると、竜之助はいまさら自分の行手を思案する気にもなる。
「拙者は島原へ行こうと思っているのだ」
「島原――結構」
と田中新兵衛が言下に応じました。竜之助が島原と言ったのは出まかせである。最初からそこへ目的を置いたわけではなし、そこになんらの知己ある人がいるわけではないが、今の先、島原へと誘引した白い手首があった、そのことが眼先にちらついていたものだから、つい口頭に現われたものだが、この際は自分ながらよく言ったと思った。
 今の竜之助としては、会津へ行くとも言えまい。壬生《みぶ》へ参るとも言えまい。京洛の天地に彼が名乗りかけて、草鞋を脱ごうという心当りは一つもない。ただ、島原だけは万人の家である。あすこには、いかなる人をも許して拒まない女性がいる。
 そこで二人は、無言に轡《くつわ》を並べて、薄野原《すすきのはら》を歩み出しました。行けども行けども薄野原で、京伏見への追分路が、こんなに野原続きのはずはないのに、ほとんど無限の野原つづき。しかもその前面には、たえず「柳緑花紅」の石ぶみが並び進んで離れない。ただ安心なのは、この不意打ちの旅客に、今宵はドコまで行っても殺気というものが湧いて来ないことである。昔のように、警戒も、残心も、さらに必要がなくて、ややもすれば同行同向のなつかしみがにじみ出でて来る。竜之助は全く打ちとけた心になって、かえってこちらから隔てなく話しかけるような気分になりました。
「その後、拙者は身世《しんせい》の数奇《さっき》というやつで、有為転変《ういてんぺん》の行路を極めたが、天下の大勢というものにはトンと暗い、京都はどうなっている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩や、長州の近頃の雲行きはどうなっている、知っているなら話してくれないか」
「うむ、僕もよくは知らんが、君よりは一日の長があるか知れん、知っているだけ物語って聞かそう。まず、君にも何かと縁故の深い壬生《みぶ》の新撰組だな」
「うむ――どうだい、あれは」
「近藤勇がこれを率いて、土方《ひじかた》がそれを助けている、今の新撰組はことごとく近藤によって統制されている、新撰組の近藤ではない、近藤の新撰組だ、いや新撰組の近藤というよりも京都の近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町だ、近藤の威力は飛ぶ鳥を落し、泣く児もだまる」
「近藤勇――それほどの勢力となりおったかな」
「市中の威力は町奉行以上、守護職以上、脱走の大藩浪人共も、かれの前には猫のようで、彼を怖るること虎の如し、全くエライ勢いだよ」
「彼もたいした英雄でもなかろうが、時の勢いで、威がついたのだな」
「たいした英雄ではないかも知らんが、たいした勇敢だ、是非名分はトニカクとして、あれだけの勇気ある奴はない、あれだけの決断のある奴はない、勢いの帰するところ、必ずしも偶然とのみは言えないのだ。そもそも彼が今日の威力を得たことも、必ずしも蛮勇と僥倖《ぎょうこう》とのみは言えない――ドコかに一片の至誠の人を打つものがあり、多少ともに人を御する頭梁《とうりょう》の器《うつわ》があればのことだ。彼の今日に至るまでには、血の歴史がある。血の歴史と言ったところで、人を斬って見るその血のことのみを言うのではない、自分の精神的にだ。精神的に、血涙を呑むの苦闘を嘗《な》め来《きた》った、それを言うのだ。近藤を蛮勇一辺の男とのみ見る人は、その胸臆をよく知らないものだよ、彼は珍しく純なところのある血性の男児で、憎むことを知る男だよ。彼にこの血性の有する限り、血の歴史はまだまだ続くよ」
 斯様《かよう》に語り来った新兵衛の言葉には、幾分なりと近藤に対する同情が
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