す限り茫々《ぼうぼう》たる薄野原《すすきのはら》でありました。
 机竜之助は、「柳緑花紅」の石に腰打ちかけて、腰なる煙草入を取り出して、燧石《ひうちいし》をカチカチ、一ぷくの煙草をのみ出しました。今日まで机竜之助が杯《はい》を傾けたということは見えているが、未だ煙草をのんだという記録はなかったように思う。ここへ来てはじめて悠々と煙草をのみ出している。
 煙草をのみながら、透綾《すきや》のように透き通る笠の、前半面から、悠然として、目に余るすすき野原をながめているのであります。
 そうすると、暫くして、行手の右の方の蜿蜒《えんえん》たる一筋路は伏見街道――やはり、すすき野原を分けて、見えつ隠れつ、一《ひ》い、二《ふ》う、三《み》い、三梃の乗物が、三人の従者に附添われながら大和路へ向って行くのを見る。
「おーい」
と机竜之助が、これを見かけて、片手をあげて呼ぶと、あちらでも、
「おーい」
 答えはあったが、人が見えない。
 机竜之助は、あわただしく火打道具を腰にはさんで、笠の紐をとって、それを片手に高く打振りました。
「おーい」
 あちらでも、
「おーい」
 すすき野原の中から、こだまを返して、返事はあるが、あちらでは手を振る人もなければ、ひらめかす笠もあるではない。乗物はずんずんと離れて進んで、すすき野原の中へ、見えつ、隠れつ、行く手は大和、河内の山、そこへ没入してしまうげに見える。
「おーい」
 竜之助は何と思ってか、突然に腰かけの石を立って、二三歩進み出し、また笠を手強く振って、
「おーい」
 こんどは返事がありません。返事のないことは、もはや、さいぜんの乗物がすすき野原を打過ぎて、大和、河内の山の中へ没入してしまった証拠です。
 それと知りつつ竜之助は、またも二歩と三歩と進んでみましたが、もうおとなうものは、谷川のせせらぎのほかは何もない。
 茫然として、そこに立ちつくしていると、
「おーい」
 今は人を呼びかけた身、今度は後ろから人に呼びかけられるらしい声がする。
「何だ」
「おーい」
「おーい」
 相呼び、相答うる双方の声はまだ遠いのに、不意に竜之助の肩に後ろから手をかけた者がある。その手は軟らかい白い手でありました。
「あなた」
「誰だ」
「どちらへいらっしゃるの」
「どこへ行こうと……」
 手だけは肩にかかって、声はするが姿は見えない。あまりにけったいなる物のたずね方なので、竜之助、怒気を含んで見返ろうとしたが、この背後が磐石《ばんじゃく》のように重い。
「島原へいらっしゃいよ」
「島原へ――」
 一方の白い軟らかい手が、自分の左の肩にかかっていたかと思うと、今度は、右の方の眼の前へ一つの白い軟らかい手が現われました。そうして、しかもその軟らかい手が、五体にくっついていないのです。手首から下はありやなしや、その指先だけが、
「島原へ――」
と言って、一方の空を指している。この指したところを見ると、ぼうっと、一隅だけ酸漿《ほおずき》のように赤い。
「あれが島原か」
「もう一ぺん、あなたを島原で遊ばせて上げたい」
「…………」
「皆さん、相変らずお盛んでございますよ、芹沢《せりざわ》さんは殺されましたが」
「近藤勇は無事か……」
「無事どころか、飛ぶ鳥落す勢いだよ、わは、は、は、は、は」
 それは軟らかく白い手首の女の声ではない、豪傑的なすさまじい高笑いでありました。
「誰だ」
と振り切った時は、竜之助の身が軽くなりました。島原へ――指したその手は細く柔らかい手でしたが、高笑いは、決してその手に相応する声ではありませんでした。このすさまじい高笑いが起ると共に、左の肩に置かれた細いしなやかな手も、右で指さされた島原の白い手首も、すっと、霞を引いたように消え失せてしまって、竜之助が振返った背後には、雲を衝《つ》く大男が一人、大手を振ってのっしのっしと歩み来るのを見受けます。
「は、は、は」
 先方は、すさまじい豪傑笑いを以て、竜之助の背後に迫り来《きた》ったのです。その時に、発止と思い当った竜之助は、二三歩すさって身構えざるを得なかったものです。
「喫驚《びっくり》したかな、田中新兵衛だよ、示現流《じげんりゅう》の、主水正正清《もんどのしょうまさきよ》の田中新兵衛だ」
「うむ――また出たか」
「今度は果し合いの申込みなんて、そんな野暮《やぼ》な真似《まね》はせぬから安心し給え、おいも、久しぶりで京都へ入るのだ、いい道連れを欲しいと思っていたところへ君が来たので嬉しいよ、昔のことは忘れて、旅は道連れの情けを以て、つき合ってくれ給え」
 いかにも、そういう声は田中新兵衛である。その昔、この道を通った時に、不意に背後から呼び留めて、白昼、真剣の果し合いを申込んだあの白徒《しれもの》である。だが、今宵は、あの時と打って変ったあけっ
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