りに致そう、たよりをくれ給えよ、綴喜郡の田辺のこれこれへ、京へ着いたら忘れないように早々便りをくれ給えよ」
「先刻心得ておりますよ」
「財閥へうまく胡麻をすって、大儲《おおもう》けに儲けなさいよ」
これはよけいなことでした。こういうことは、この際、口走らない方がよかったのですが、どうも、御人体《ごにんてい》で如何《いかん》ともし難いと見える。
「ようござんすとも、どっさり儲けて、上方のお酒の相場を狂わすほどに飲ませて上げますよ、もうたくさんとおっしゃっても、口を割って飲ませて上げますよ」
とお角さんが応酬しました。前口上の、御意の通り大いに儲けて、上方のお酒の相場を狂わすほどに飲ませて上げますよはいいとしても、あとの、もうたくさんとおっしゃっても、口を割って飲ませて上げますよは、よけいなことです。道庵も、口を割ってまで飲ませられてはたまるまい。
「なにぶん頼む」
それを道庵が素直に受けますと、お角さんが今度は健斎老の方へ向き直り、これは道庵先生に対するとは打って変った慇懃《いんぎん》ぶりで、
「では健斎先生、これでお暇《いとま》を申し上げます、この上とも、万事よろしくお願い申し上げます、そういう次第でございますから、病人の方には、道庵先生が御同行していることを当分はお話し申さない方がよろしいかと存じます、それから、こちらの大きな方の御厄介者、これが病人よりは一層の難物かと存じますが、この方も万事よろしく」
「ばかにしなさんな」
「ではなにぶん」
「失礼」
「お大切に」
「あばよ」
これがこの場の最後の挨拶。
右へ道をとれば山城の国、山科――左は伏見から大阪へ。
二人の医者は、わざとあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]を空にして、駕籠《かご》わきにつき添って歩いて行く。乗物と人物の見えなくなるまでお角さんは、追分の札の辻に立って見送っている。両国手は、時々振返って、一瓢をささげ上げて、さらばの継足し、その度毎に、お角さんも手を挙げてあいさつを返す。さきに待兼ねていた先発のお雪ちゃんの駕籠のところまで来ると、二人の国手も乗物の中へ隠れて、かくて三乗三従の一行は、追分道を左に綴喜郡田辺の里へ向って急ぐ。
お角さんは、それを見送って、改めて庄公を引き立て、以前の通り大谷風呂をさして戻りにつく。
四十二
お雪ちゃんを追分から南へ送った日のその晩のこと。
これは大谷風呂ではない、関の清水の鳥居の下から、ふらりと現われた一人の武士がありました。笠をかぶって、馬乗袴のマチの高いのを穿《は》いて手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》のいでたち、たった一人、神社の石段を下りて、鳥居をくぐって、街道へ歩み出しました。
その時分、もう、さしもの街道にも人通りは絶えていたのです。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城《かつらぎ》まで呼びかける逢坂山《おうさかやま》の夜の峠路を、この人は夢の国からでも出て来たように、ゆらりゆらりと歩いていました。
どうも、この骨格から、肩越し、足もとに見覚えがある。笠のうちこそ見物《みもの》だと思って心配するがものはない、前半の一文字笠が、その瞬間、紗《うすもの》のように透きとおって、面《かお》が蛍の光のように蒼白《あおじろ》く夜の色を破って透いて見えるのです。さては思いなしの通り、この人は机竜之助でありました。
絶えて久しい、この人の姿を逢坂山の上で見る。いつのまに健康を取戻したか、姿勢はしゃんとして、しかも、足許がきまっている。杖の力を借りないで、百里も突破する体勢になっている。眼は癒《なお》ったのだろう。その証拠に、今、紗のように透き通った笠の前半を見ると、切れの長い眼が、真珠の水底に沈んだような光を見せていた。関の明神の下で、草鞋《わらじ》の紐を結び直したあの手もとを見てもわかる。眼の不自由な者に、あんな手に入った扱いはできない。
街道へ出て、人なき大道をこの人は、真直ぐに京山科方面へ向って、のっしのっしと歩んで行くのです。
その足どりは甚だ軽く、腰に帯びた大小の蝋色《ろういろ》もおだやかで、重きに煩う色はない。
行き行きて追分の札の辻まで来る。ここは朝のうち、伏見街道を行くお雪ちゃんと、両国手とをお角さんが送って来て、さらばさらばをしたところ。
「柳は緑、花は紅」の石標に腰打ちかけた机竜之助、前途を見渡すと夜色が京洛に立ちこめている。昼間に見たところでは、追分の辻から左右ともに、人家が櫛《くし》の歯のように並んでいたと覚えていたが、真夜中というものは、時代を一世紀も二世紀も逆転して見せるもので、風景もおのずからその時代の風景ではない。右手にながめる比良、比叡の山つづき、左にわたる大和、河内への山つづき、この間は一帯の盆地、京洛の天地はいずれのところにあるや、山科、宇治も見渡
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