感激の力のある言葉を発しました。これに力を得たお角さんは、
「ええ、あの先生がね、こちらへ参っていまして、こちらの先生と昔からのお友達なんだそうでございますよ、二人のエライ先生がお附きだから、全く親船に乗ったようなもので、あなた様もお仕合せです」
と励みをつけました。事実、この二人の国手《こくしゅ》がついていれば、大丈夫保険附きのようなものですから、お角さんの口前とばかりは言えません。しかし喜ぶべきはずのお雪ちゃんは、まだ思う存分に意志の発表ができるほど、気力が回復していないと見えて、いったんは道庵先生と聞いて、いささかながら昂奮の気色が見えましたが、お角さんがはずむほど、それほどはずまないようです。
 そうして、少し身動きをして言いました、
「それは御親切に有難いことでございますが、どうもわたくしは、知っているお方にはお目にかかりたくない心持が致しまして、このままずっと大阪へ行ってしまいたいと存じます、いいえ、こちらの先生の田辺とやらへ御厄介になって、それから大阪へ参るなら参るように致したいと思います」
と、やっとお雪ちゃんがこう言いました。
 それにお雪ちゃんは、道庵先生とは至極心安い。胆吹の王国で、この先生といっしょにハイキングをやったこともあれば、人生問題を論じ合ったこともある。至極イキの合う先生ではあるが、今となっては、自分を知っている人のすべてに会うことを、悪意でなく、避けたがっている。その気分をお角さんも認めたものですから、
「それもそうですね、ではあなたは道庵先生とは別の心持でいらっしゃい、お雪様だか誰だかわからないようにしてお送りしますから、蔭にはいつも両先生がついていると、心強く思っていらっしゃい」
 そこはお角さんも心得ている。道庵という先生は、至極出来のいい先生ではあるけれども、何をいうにも、あのがさつ[#「がさつ」に傍点]な気象である。むやみにいい機嫌で、病人の傍でさわがれた日には、病人のためにならないこともある。且つまた、この病人は、全く素直であるだけ、それだけ油断がならない。いつまた昂奮して、再び死を急ぐような気分にならないとも限らない。心中者には特にそういう気分は有りがちで、まあよかった、人間一人を取戻したと思ってホッと安心している、その隙《すき》をねらって飛び出して本望を遂げてしまうという例もずいぶんあることですから、その辺は健斎先生にもよく依頼してある。なんにしても、当分は、絹糸にさわるように本人の気分をやわらかにして置かなければならない。この際に道庵先生のようなざっかけ[#「ざっかけ」に傍点]を、病人の意志に反して、傍に置くことは相当考えなければならないと、お角さんが思いました。
 そこへ、取次の女中が出て来まして、
「ちょじゃまち[#「ちょじゃまち」に傍点]の先生とかおっしゃるお方が、おいでになりました」
 早くも道庵が進入して来たらしい。

         四十一

 さて、その翌日になりますと、大谷風呂から三箇の乗物が前後して出立しました。
 まんなかのは普通の四ツ手ですが、前後のは、お医者さんだけが乗るべきあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]です。
 それに附添が三人――
 これによって見ても、まんなかのお駕籠《かご》がお雪ちゃんで、前後のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]に、健斎、道庵の両国手が乗込んでいることと想像ができる。
 駕籠附の一人は、山城田辺から健斎国手がつれて来たおともで、他の二人は伊太夫の従者の若い者でした。
 この三乗三従の一行に加うるに、お角さんが庄公を召しつれて、追分まで送ろうというのです。
 やがて程遠からぬ追分まで来ると、例の「柳緑花紅」の道しるべの前で、前後のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]だけが乗物をとどめ、まんなかの四ツ手は先をきって、静かに打たせて行きます。前後のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]が停ったかと思うと、両方から一時にころがり出したのは、前なるは健斎国手、あとのは道庵先生でありました。
「やれやれ、御苦労さま」
 道庵が額の汗を拭きますと(汗は出ていないのだが、手加減で汗を拭く真似《まね》をする)お角さんが、
「先生、御窮屈でございましょうね」
「わしゃ、どうも、駕籠乗物よりは、事情の許す限り徒歩主義でしてね」
 そう言うと健斎国手も、
「いや、わしも歩くのが好きなんだ、では、これからずうっと歩くことにしようじゃないか、時に随って、或いは歩み、或いは乗るということにして行こう」
「賛成」
 二人はそういうことに同意をしました。お雪ちゃんの乗物は、一町ばかり先に休んでいる。こういう行き方にも、またお角さんの気の利《き》いた細かな勘が働いているものと思われます。
「では親方」
と道庵が改めて、お角の方へ向き直り、
「京都でゆっくり再会という段取
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