たものだろう」
「心中者らしいのだ」
「心中者――今時、洒落《しゃれ》てやがるな」
「でもまあ、助かったから功徳《くどく》というものさ」
 二人、会話をしているうちに、婆やが酒を運ぶ、茶菓を運ぶ。
 それが話のきっかけになって、健斎は、どうしても道庵を田辺へ引っぱって行くと言ってきかない。
「田辺なんてところに、何かいいものがあるのかい」
「有るとも、大有りさ、一休和尚の寺がある」
「一休! 一休と聞いちゃ、聞きのがせねえよ」
と道庵が、いささかはずみました。山城の国、綴喜郡《つづきごおり》、田辺の里に、一休和尚の旧蹟|酬恩庵《しゅうおんあん》があることの説明を、健斎老が道庵先生に説いて聞かせた上、どうしても、これから道庵先生を引っぱって行って、大いに上方酒《かみがたざけ》を飲ませなければならぬ、と言い出したものですから、暫く思案した道庵が、忽ち同意してしまいました。
 先に言うが如く、道庵が空虚を感じながら、ここを動けない理由の一つとしては、孤立無援で、味方のない敵地へ乗込むということの危険を予想したからである。ところが、山城生れの生粋《きっすい》の土地っ子で根の生えたやつが、自分の味方についた。これは切っても切れない書生時代からの同学だから、どう間違っても裏切りのおそれはない。のみならず、家も旧家で、相当豊かな暮らしをしていることがわかる。道庵に一月や二月、呑ませたからといって身上にさわる家でないこともよくわかる。且つまた、職務の暇々には、自分も興味を以て畿内の名所旧蹟を歴遊してもよいということだから、こうなってみると、あえて米友やお角をたよりにする必要はない。そういうのを頼りにして出かけるよりは、この方が一層、利《き》き目《め》があると思いました。
 道庵がそう鑑定したものですから、一も二もなく健斎の招待に応ずることになりました。もうこうなってみると、本草学の研究も、貧乏祭の計画も打忘れてしまって、いざ出直しの用意にとりかかるという気早さです。

         四十

 大谷風呂の別の一間には、屏風《びょうぶ》が立て廻されて、この外に、一人のお医者さんと、女の人とがいろいろと会談をしています。
 そのお医者さんというのは、さきほどのあの中川健斎老で、もう一人の女の人というのは、ほかならぬお角さんであります。
 屏風の中で、すやすやと眠っていたらしい病人が、やっと眼がさめた様子を見計らって、外からお角さんが言葉をかけました、
「お目ざめになりましたか」
「はい」
 お角さんが、屏風をちょっと押しやると、そこで枕についていたのは、やっぱり女の人であります。枕にかかる洗い髪は、まだ若い緑の黒髪がたっぷりしていました。
 そうすると健斎老が、これは無言で膝行《いざ》り寄り、患者の枕許へ手を入れて、しずかに取り上げた小腕を見ると細くて白い。
「ねえ、お雪様」
と、お医者さんに脈を見せて置いて、これも一膝進ませたお角さん。
 枕に親しんでいるのはお雪ちゃんであります。お角さんは、お雪ちゃんを呼ぶに、お雪ちゃんともお雪さんとも言わない、お雪様と本格扱いです。
「はい」
「先生が、わざわざ田辺からおいで下さいまして、もうすっかり、こっちのものだと太鼓判をお捺《お》しになりましたから、御安心なさいませよ」
「はい」
「そうしてね、お雪様、ここは閑静で、いつまで保養をなさっていてもかまいませんが、何を言うにも宿屋のことですから、行届き兼ねます、あなた様は、大阪へ帰りたい帰りたいとおっしゃいますが、いっそ、暫くこの先生のお宅に御厄介になって、それから充分おたっしゃになってから、大阪の方へお帰りになるようになさってはどうですか」
「はい」
 何を言っても、はいはいと逆らわない。逆らわないだけたより[#「たより」に傍点]のないような心持もする。その時、脈を取り終った健斎老が、
「もうほとんど平脈、危険のおそれ更になし、どうです、今このおかみさんがおっしゃる通り、僕のところへおいでなさい、綴喜郡の田辺というところだ、京都から見るとずっと田舎《いなか》だが、空気もいいですよ、小高い山の上に別荘がある、そこで充分に保養なさい、健康が全く回復してから大阪へ送って上げますよ」
「はい、有難うございます」
 素直に納得するのを、お角さんがまた傍らから力をつけて、
「そうなさいませよ、万事、少しも心配はいりません、あとのことも、先のことも、すっかりいいようにして上げてありますから」
「有難うございます」
「それから、もう一つ心強いことはね、お雪様、あなたも御承知のあの長者町の道庵先生が御一緒に参りますから、安心の上にも安心でございますよ」
「あの、道庵先生が――」
 ここで、お雪ちゃんがはじめて、「はい」と「有難う」との単語のほかに、些少《さしょう》ながら
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