のあたり、あまり遠くないところに住んでいる、やはり道庵の同業者の一人であることが、名前から言っても、言語挙動から言っても、充分に受取れる。
「健斎君、君のところは、この近辺だったかいねえ」
「山城の田辺《たなべ》だよ」
「山城の田辺というと、どっちに当るかなあ」
「伏見の先の方なんだ」
「そうか。そうしてまた、どうして道庵がここにとぐろを捲いているということがわかったのだい」
「いや、それは、思わぬところで耳に入れたものだから、とりあえずやって来て見ると、君は留守だとのことだが、座敷の模様を見ると、あまり遠出をしたようでもないから、そのうち戻るだろうと、こうして待っていたところだ」
「よく待っていてくれた、なんにしても、聖堂以来の思いがけない対面で嬉しい、早速いっぱいやろう」
「ははあ、君は相変らず飲むな、僕はあれ以来、禁酒だよ」
「そいつは惜しいな、玉の盃《さかずき》、底なきが如しだあ。まあ、なんでもいいや、くつろぎ給え、聖堂以来の旧知、遠方より来《きた》る、またたのしからずや」
「遠方より来るは、こっちの言い分だ、君が遥々《はるばる》江戸から来てくれたんだから、これから僕が大いに飲ませるよ」
「有難え――持つべきものは友人だ」
 二人ともに、非常に砕けている。その交際ぶりを見ると、昨日や今日の間柄ではない。いい年をした二人が、全く若やいだ書生気分になってはしゃぎ出したのは、つまり、二人は書生時代に、江戸に於ける学問友達であったのです。江戸在学の間、二人は盛んに交際したものであるが、一方は江戸に留まって十八文の名、天下(?)に遍《あまね》く、一方は郷里なる山城田辺に引込んで、先祖代々の医業を継承している。その間は音信不通であったのだが、会ってみると、急に時代が三四十年も逆戻りをして、牛肉を突っついた昔に返ってしまうのも道理です。
「へえ、どうして君は、僕がここにわだかまっているということがわかったんだね」
 道庵が、どっかりと坐り込んで、再び念を押すと、健斎が、
「不思議なところで聞いて来たよ、この上の大谷風呂で、君がここへ来ているということを、はからずも耳に入れたものだから、早速かけつけて来たのだ」
「大谷風呂で聞いたって、大谷風呂の誰に聞いたんだい」
「それが妙な因縁でな、順序を話すと、こうなんだよ――大谷風呂に、甲州の有名な財閥で、藤原の伊太夫というのがいる」
「知ってる、僕も名前だけは大いに聞いている、それから最近、お角という奴が、妙に胡麻《ごま》をすっていることも知っている」
 お角という奴が、胡麻をするかすらないか、そんなことはよけいなことだが、とにかく、藤原の伊太夫には相当|知音《ちいん》の間柄と見える。その点を健斎が説明して言うには、
「その藤原の伊太夫というのは、親父《おやじ》の代からの懇意で、出府の前にはよく往来したものだが、その伊太夫が今度、上方へやって来て、大谷風呂に逗留しているのだ」
「そこへ、君がまた胡麻すりに来たのか」
「よせやい、おれはこう見えたって、財閥に胡麻をするひまはないんだ、ただ、その旧知の縁によって、伊太夫から招かれたんだ。ただ招かれたんでは、そう安々と出て来るわけにはいかないが、旅中、同行の中に急病者が出来たから、枉《ま》げて都合して来て見てくれないかという急の使だから、早速やって来てみたところなのだ」
 健斎が、こう言ったところを以て見ると、ますます同業者ということがわかる。同時に健斎の家は、田辺でも代々旧家の方で、相当の貫禄があるのだから、伊太夫に招かれたからと言って、そう安々とは出て来られないはずだが、病人ありと聞いては、職業柄、猶予はできないで、駈けつけて来たというのは、聞える道理だが、そのくらいなら、ナゼ道庵に頼まない! という不服が、道庵の胸三寸に、ちょっと、つむじを捲かせました。そうして不服を包んでいる道庵でないから、忽《たちま》ちにムキ出してしまって、
「なに、伊太夫に急病人が出来たから、わざわざ田辺まで君を招きに行ったのか。人をばかにしていやがら、つい端近《はしぢか》に、この道庵というものが控えているのを知りながら、ほかへ使をやるなんて、胡麻すりのお角もお角じゃねえか」
とこう言いました。道庵の気象を呑込んでいる健斎だから、そんな不服は深くは取上げない。
「いや、それには何か特別の事情があるらしいのでね、近所の医者では都合が悪かったのだろう、実は普通の病人ではないのだ、水死人なのだ、水に溺《おぼ》れた人を、伊太夫殿が湖水から掬《すく》い上げて来て、それを一室に匿《かく》まい、治療をさせようという次第で、急に僕のことを思い出して使を立てたものらしい」
「ははあ、あいつら、竹生島へ参詣をかこつけて、デモの避難を試みたそうだが、では、その途中、水死人を拾い上げでもして来
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