前さんは樹上の梨を取って食べた、そうして甘いところの実は、すっかり自分で食べてしまって、食べ残りのしん[#「しん」に傍点]を路傍《みちばた》へ抛《ほう》り出したが、そのしん[#「しん」に傍点]を地上で餓えた蟻が這《は》いよって食べて、それで蟻の命が救われた、お前さんには、たった一つのその功徳がある。その蟻が今の世で人間となって京都へ生れ、木屋町で豆腐屋を開いて、相当に繁昌している、よって、お前さん、母御をつれて、その豆腐屋へ行って相談してごらんなさい」
投げ足の弁天から、これだけのことを教えられて、安然法師も、当座の急を救われる喜びには打たれたけれども、それにしても、弁天の応対ぶりが不愉快であった。弁天様とは言いながら、女の身で、人に挨拶するのに足を投げ出してするとは何だ。かりにも前世や後生のことを語るのに、いくら私が貧鈍で薄徳だからといって、足を投げ出して話をする作法はない――と安然法師はそのことを憤って、お祈りをして弁天様の足を封じたところが、それっきり弁天様の足が動かなくなった。それで、あの弁天様は、永久に足を投げ出したままの不作法をさらしている。投げ足弁天の由来はこうである、というのです。
それはそれとして、安然法師は、言われた通りに京都の木屋町まで来て見ると、言われた通りの豆腐屋がある。それをたずねて委細を物語ってみると、その豆腐屋が立ちどころに同情して、母は豆腐屋が養ってくれることになり、安然は豆腐のカラを恵まれて、それを食べつつ修行して、ついに大智識になった――という因縁物語を聞き終ると、道庵がまた大いに感動させられてしまいました。
「いや、それで貧乏神の由来がわかりました、大いに教訓のある話です、貧乏の方では拙者もかなり先達《せんだつ》の方ですが、あねさん[#「あねさん」に傍点]にはかないません、これは大先輩でした。ひとつ、どうでしょう、これも御縁ですから、安然大師のために、ひとつ拙者が発起人となって大供養を致したい、そうして一方、お角親方をでも焚《た》きつけて、盛んに景気をつけて、縁起直しをやりてえもんだねえ、貧乏神のあねさん[#「あねさん」に傍点]を、ひとつ福々の神様に祭り直して上げたいものですねえ」
こんなことを口走ったのを、住職は多分お座なりのお世辞だろうぐらいに聞き流していましたが、道庵にとっては真剣でした。
道庵は得てこういう芝居気がある。関ヶ原ではまんまと大御所を気取りそこねたが、一向ひるまない。今日はまた、ここでこんな因縁話を聞いてみると、ほんとうに身につまされる。ことに自分と同じ宗旨の大先達であってみると、今日このお墓参りをしたということが、何かのお引合せである。今いう前世というやつのお節介に相違ない。ことに世間の奴等がこれほどの大先達を冷遇して、死んだあとの塔をまで、あちら向きにしてしまうなどとは、不人情と言おうか、冷酷非道と言おうか、言語道断のふるまいである。今日、その流れを汲む道庵がここへ来たからには百人力。
ことに、芝居道の大策士たる女将軍が後ろに控えていて、そのまた後ろには、それは貧乏神とは全く対蹠的《たいせきてき》な大財閥が一人控えている。二人を脅迫して、うんと金を出させて、死せる不遇なる大先輩のために大々的な追善供養をするんだ――と道庵の心中はいきり立っているのを、住職はそこまでは見破ることができません。
三十九
道庵先生は、不日この地に於て盛大なる「貧乏祭」を催し、亡き安然大徳に追善供養すると同時に、この地方の有志をアッと言わせてやろうという野心に駆《か》られつつ、裏山をあてどもなく散歩し、程よきところで一瓢《いっぴょう》を傾けつつ、いいかげんに遊んで、やがてまた小町塚の庵《いおり》へ戻って来ました。
道庵が、小町塚の庵へいい機嫌で立戻って見ると、意外にも来客が一人あって、留守の間に座に通って、すまし込んで控えておりました。
「やあ」
「やあ」
相見て、おたがいに呆《あき》れたのは、これはたしかに相当熟した旧知の間柄であることがわかる。留守中の来客というのは、年配もほぼ道庵先生とおっつかっつであって、道庵より少し背は低いが、よく肥って、人品も悪くない一人の老紳士でありました。
「健斎君」
「道庵君」
「いや、どうも暫く」
「全く思いがけないよ」
「こんにちは」
「こんにちは」
二人とも意外意外で、立ったなり、坐ったなりで、珍妙な挨拶を取交しました。
これだけの名乗りによると、一方が道庵君であることは先刻わかっているが、留守中の来客というのが健斎君であることが同時にわかりました。しかし健斎君といっても、道庵にはわかっているが、他の者にはわからない。この作中に於ては初見参の名前ですから……だが、戸籍を洗ってみると、少しも怪しい者ではない。こ
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