いお天気でがすよ。時に、この塔はこりゃ、いったい何でござんす」
と道庵先生がたずねますと、右の中年僧がニコニコして、
「あねさん[#「あねさん」に傍点]塚でござんすよ」
「あねさん[#「あねさん」に傍点]塚?」
「ええ、これが有名なあねさん[#「あねさん」に傍点]塚でござんすが、尋ねて下さるお方は甚《はなは》だ少ないでごわしてな」
その甚だ少ない中の、自分が一人であると見立てられると、道庵先生いささか得意にならざるを得ない。
「いや、それほどでもないですがね、あねさん[#「あねさん」に傍点]とは申しながら、これほどのものを無縁塔にして置くのは惜しいと思いましてな」
あんまり要領を得ない返事をします。右の中年僧が、改めて道庵先生のために説明の労を取りました。
「いや、無縁ではございませんが、まあ、一種の悪縁とも言うべきでしょうか、これほどのお方の遺蹟が、すっかり世間から冷遇されることになりましたのは、遺憾千万なことでござんすよ」
「あねさん[#「あねさん」に傍点]も、世間からそう冷遇されるようになっちゃあおしまいだ。いったい、あねさん[#「あねさん」に傍点]、あねさん[#「あねさん」に傍点]と言わっしゃるが、ドコの何というあねさん[#「あねさん」に傍点]なんですね、まさか本所のあねさん[#「あねさん」に傍点]でもござるまいがなあ」
と道庵が言いますと、中年僧は、
「あねさん[#「あねさん」に傍点]というのは俗称でござんしてな――実は五大院の安然《あんねん》大和尚のこれがその爪髪塔《そうはつとう》なんでござんすよ」
「ははあ、安然大和尚、一名あねさん[#「あねさん」に傍点]――」
「その通りでござんす、これが安然大和尚の爪髪塔なることは、歴然として考証も成り立つし、第一、磨滅こそしているようですが、よくごらんになりますと、ここにこれ、もったいなくも『勅伝法――五大院先徳安然大和尚』と銘がはっきり出ております」
「ははあ、なるほど」
道庵がまだ注意しなかった石の側面に、なるほど立派に右の如く読める文字が刻してある。そこで、中年僧(実は長安寺の住職平田諦善師)は安然和尚に就いて、その来歴を次の如く道庵先生に語って聞かせました。
三十七
五大院の安然に就いては、「本朝高僧伝」には次の如くに記してあります。
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「初め慈覚大師に随つて学び、後、辺昭僧正に就いて受く、叡山に五大院を構へ屏居《へいきよ》して出でず、著述を事とす、元慶八年勅して元慶寺の座主《ざす》たらしめ、伝法|阿闍梨《あじやり》に任ず、終る所を記せず、世に五大院の先徳と称し、又阿覚大師と称す、著、悉曇蔵《しつたんぞう》八巻あり」
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また「元亨釈書《げんこうしゃくしょ》」と「東国高僧伝」とには次の如く要領が記されてあるのであります。
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「安然は伝教大師の系族なり、長ずるに及び、聡敏《そうびん》人に邁《すぐ》れ、早く叡山に上り、慈覚大師に就いて顕密の二教を学びてその秘奥《ひあう》を極む、又、花山の辺昭に就いて胎蔵法を受く、博《ひろ》く経論に渉猟《せふれふ》し、百家に馳聘《ちへい》して、その述作する所、大教を補弼《ほひつ》す、所謂《いはゆる》『教時問答』『菩提心義』『悉曇蔵』『大悉曇草』等なり、その『教時問答』は一仏一処一教を立て、三世十方一切仏教を判摂す、顕密を錯綜《さくそう》し、諸宗を泛淙《はんそう》す、台密の者、法を之に取る、その『悉曇草』は深く梵学《ぼんがく》の奥旨《あうし》を得たり。時人|曰《いは》く、安然は東岳の唇舌を以て西天の音韻に通ず、才|宏劉《くわうりう》なるかなと。都率超曰く、然《しか》り、師は顕密の博士なりと。又曰く、公|若《も》し我が門に入らざれば秘教地に墜つ可しと。その英賢の為に旌《あらは》さるること此《かく》の如く、元慶八年勅して元慶寺伝法阿闍梨と為す」
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これほどの大善智識でありながら、死後すでに一千年、誰もその徳を慕う者がないばかりか、その記念の塔ですらが、世間から冷遇されるとは何と不幸な聖《ひじり》ではないか。
住職和尚から、この一通りの来歴を説明されて道庵先生が、
「なるほど、五大院の安然大和尚が、教界古今の大学者だということは、拙者も兼ねて承らないでもありませんがね、それが、あねさん[#「あねさん」に傍点]呼ばわりは、語呂の共通転訛の致すところで、やむを得ないとしてからが、それほどの大徳が、今日に至って、さほど世間から冷遇されるというのは、どうしたものでござるか、明智光秀の塔が壊されるとか、足利尊氏《あしかがたかうじ》の木像が梟《さら》されるとかいうなら、筋は通るが、しかし、碩学《せきがく》高僧である大和尚が、死後まで、
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