外されて、別に何か墨蹟がつっかかって、その下には、松が一枝活けてあるばっかり。
床の間へ摺《す》り寄って見た道庵先生は、このかけ替えられた軸物を、皮肉らしい面《かお》をしてつくづくと見つめると、
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鼠入|銭※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]《せんとう》伎已窮
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と、いけぞんざいに書きなぐってある。その下の落款《らっかん》を見ると、「一休純」と読める。そこで道庵先生が、
「一休め、皮肉な文句を書きやがったな」
と一謔《いちぎゃく》を発しただけで座につきました。座につくと、座蒲団《ざぶとん》も、机も、煙草盆も、普通一通りのものが備わっていて、お銀様の時のとは品は変るが、万端抜かりないことは同じで、ただ坐り込んで召使を呼びさえすれば事が足るように出来ている。
そこで、一ぷくしてから、先生が御自慢の本草学にとりかかりました。
つまり、宿からここへ送らせた旅嚢《りょのう》を、すっかり座敷へブチまけて、植物と押葉の分類をはじめたのです。それをはじめ出すと熱心なもので、さすがに心がけある先生だけに、つとめるところは、きっとつとめる。或るものはそれを改めて押葉とし、すでに押しのきいたものは取り出して台紙にはる。旅中では扱い兼ねる代物《しろもの》は写生にとって、図解と註釈とを記入する。牧野富太郎はだしの熱心を以て、道中、ことに胆吹の薬草の整理に取りかかっているのであります。
こういうことをさせて置けば、生活の空虚なんぞは決して寄せつけない。仕事に対する興味そのものもあるが、それが道庵先生の主義主張に合して、利用厚生の道に叶うと信ずればこそなのであります。すなわち、薬草を整理することは、本業の医学に忠実なる所以《ゆえん》であって、医学こそは自分の生存の使命である。直接には病人の脈こそ取らないが、この薬草を整理することに於て、間接には救世済民の業にたずさわっているのである、徒手遊食しているのではない、尸位素餐《しいそさん》に生を貪《むさぼ》っているのではないという自信を道庵先生に持たせることが、つまり、その生活を空虚から救って充実せしめる所以でありました。
「こうして、一日|作《な》している以上は、一日食う権利があるんだぜ、大口をあいて、この世の穀《ごく》を食いつぶしても恥かしくねえ」
と力みました。
実際、人は一心になると怖ろしいもので、道庵先生に於てすら、今日は朝の迎え酒だけで、それからはわきめもふらず本草学に熱中している。昼になっても、夕方になっても、飯の一つも食おうということを言わないし、酒の通いのちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]などはおくびにも出ないで、一心不乱になっている。この体《てい》を見ると真に寝食を忘れている。まず、この分なら安心である。この人が生活の空虚を感じて、人生の悲観に暮れるということになったら、もう天下はおしまいです。
かくして一日が暮れる。一日作した後の、一日の充実せる疲労を以て、ぐっすりとこの庵室に快眠を貪ることによって、天下泰平の兆《きざし》があります。
無論、その夜の夢に、小町も出て来なければ、お豊真三郎も出て来ない。第一、出て来る方でも、道庵先生のところへ出て来たって、出て来栄えがしない、張合いがないと思って、それで出て来ないのです。翌朝、眼がさめると、おきまりの迎え酒|一献《いっこん》、それからまた側目《わきめ》もふらず昨日のつづき、本草学の研究に一心不乱なる道庵先生を見出しました。
三十六
その翌日も、異常な興味を以て本草学の研究と整理に熱中していた道庵先生が、お正午《ひる》頃になると、急に大きなあくび[#「あくび」に傍点]とのび[#「のび」に傍点]を一緒にして、カラリと筆を投げ捨てるが早いか、座右の一瓢《いっぴょう》を取り上げて、そそくさと下駄をつっかけてしまいました。どこへ行くかと見ると、早くも長安寺の石段をカタリカタリと上りつめて、それから尾蔵寺の方へ抜ける細い山道を、松の根方をわけながら、ゆらりゆらりと登って行くのです。
ほどなく山腹の平らなところへ出て見ると、ここに、一風変った十三重の塔みたようなのがある。高さ一丈ばかり、とても十三重はないけれども、その塔の様式が少し変っているものですから、道庵先生は立ちよって、ためつ、すがめつ、石ぶりをながめていましたが、石刻の文字が磨滅してよく読み抜けないでいました。
すると、少し離れたところに、落葉を掃いている中年僧が一人おりましたが、道庵先生が、特別に注意を払って、右の十三重まがいの塔をなでたりさすったりしているのを見て、我が意を得たりとばかり、右の中年僧が箒《ほうき》を引きずりながら近寄って来まして、
「よいお天気ですな」
と言いました。
「よ
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