しないけれども、この気色を見て取って、お角さん自身が、こいつは少し恥を掻《か》いたかなと、なおやきもきする。人の掛合いや兼合いでは、京大阪へ出ようと、唐《から》天竺《てんじく》へ出ようと、引けは取らないお角さんだが、字学の方にかけると、気が引けてどうにもならない。そこのところを埋合わせるには究竟《くっきょう》な道庵先生である。この先生こそは江戸で名代の先生であって、酒を飲んでふざけてこそいるが、字学の出来ることは底が知れない。こういう先生を後楯《うしろだて》に控えて行けば、ドコへ行こうと鬼に金棒だという観念がお角さんにはあるので、つまり、インテリ用心棒としての道庵先生を手放したくないのです。
おたがいに、そこのところを利用し合って、うまく立廻ろうというズルい了見なのだが、それは双方とも甲羅を経ているから、勝負に優り劣りはありますまい。
そういうわけで、道庵先生は、ここはどうしても、女親方の方の埒《らち》があくまで待つことを以て策の得たるものとする。それも、そう永い時日を要せずして埒があくに相違ないと思っているが、たとえ二日三日の間にしてからが、何か仕事をしたい、何か利用厚生の仕事にたずさわらなければ、自分の生存が徒手遊食ということになり、なおむつかしく言えば、尸位素餐《しいそさん》ということになる。徒手遊食だの、尸位素餐だのということは本来、貴族社会のすることで、道庵の極力排斥し来《きた》ったことであるから、たとえ二日でも三日でも、その生活をやっているということは、多年の敵の軍門に降るようなものである。何か仕事をしなくちゃあならねえ、何か稼《かせ》ぎをして飯を食わなくっちゃあ天道様《てんとうさま》に申しわけがない、と言って退屈して、生活の空虚を感じているところへ、話があったのは、
「どうです、先生、旅籠生活《はたごせいかつ》も御退屈でございましょうし、太夫元さんの方も、ここのところ、乗りかかった船で、なお二三日は引くに引けないんだそうでございますから、どうか、もうあと二三日の御辛抱が願いたいのです、何でしたら、この上の小町塚の閑静な庵《いおり》に、ついこの間まで女のお方が御逗留でいらっしゃいましたが、そのお方が大谷風呂の方におうつりになって空きましたそうで、関寺小町の跡でございまして閑静でもございますし、ながめが至極よろしうございます、それに、便もまたよろしうございまして、お酒の通いなども、ちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]とございます、何でしたら、あちらの方へ御転宿をなさいましたら……」
伊太夫の家来と、お角さんのおつきとが、こう言って御機嫌を取ったものですから、道庵先生もいささか悲観を立て直し、
「そいつは面白い、小町なんぞは、わしには縁がねえが――何か、生活に変化を与えてもらいてえと考えていたところさ、宿屋の飯は悪くて高いからなあ――(この時、障子の外を宿屋の番頭が通る、二人の者が首をすくめるこなし、道庵は平気)何もしねえで、悪くて高い宿屋の飯を食っていることは天道様に済まねえ、何か生活に変化を与えて、充実した仕事をやりてえと思っているところだ、そういう空家があるなら、早速世話をしてもらいてえ。実はね、いろいろ考えたこともあるんだ、そういう閑静なところで一仕事やって、この退屈時間を有利に使用してえと考えていたところなんだ、そういう空家があると聞いちゃあ耳よりだね」
「それはもう至極閑静な、ながめもよろしいところでございます」
「実は、こうしている間に、そこで本草《ほんぞう》の研究をやりてえんだよ、胆吹山で、しこたま薬草の標本を取って来ているが、それも押しっぱなしで、風入れもしてなけりゃ、分類もしていねえんだから、ひとつそれを一心不乱に片づけてみてえと思っているところさ」
「そういう研究をなさるには、至極結構なところでございまして、その上に便も至極よろしく、石段を下りますともう町屋でございますから……酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]」
「その便のいいところが、老人には何よりさ、お酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]というやつがばかに気に入ったねえ、お前さんも洒落者《しゃれもの》でうれしいよ」
「あ、は、は、はっ、はっ」
そういうわけで、この先生が旅籠屋から移動せしめられたところは、つい一昨日までのお銀様のかりの住居《すまい》――小町塚の庵なのでありました。
三十五
道庵先生がこの庵へ移った時の庵と、お銀様が寓居《ぐうきょ》していた時の庵と、庵に変りはありませんが、中の意匠調度は一変しておりました。変らないのは、かのしょうづかの婆さんの木像のみで、書棚もしまいこまれてしまったし、算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》も取りのけられて見えない。「花の色は」の掛物も取
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